ボストン・ラテン・スクール
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ボストン・ラテン・スクール正面玄関

ボストン・ラテン・スクール(: Boston Latin School)は1635年4月23日にアメリカのマサチューセッツ州(当時はマサチューセッツ湾植民地ボストンに設立された公立のマグネット・スクールである。アメリカでは最初の公立高校であり、現存する最古の学校でもある[1][2][3]。公立のラテン・スクールは、ボストン特権階級の子弟を教育する拠り所であり、多くの著名ボストン人が卒業生を主張する学校になった。そのカリキュラムは18世紀のラテン・スクール運動のものを継承しており、古典学を教育された精神の基本であるとしている。7年生で入学する生徒は4年間、9年生で入学する者は3年間のラテン語学習が義務付けられている。2007年の雑誌「USニューズ&ワールド・レポート」によるアメリカ合衆国の高校トップ20の一つに入った[4][5]
歴史ボストンの旧市庁舎前に立つベンジャミン・フランクリンの彫像。ボストン・ラテン・スクールの初めの校舎がこの近くにあった。

この学校が始まった時の生徒は一人だったが、現在はボストン中から2,400人の生徒を集めている。卒業生の中からハーバード大学の学長が4人、マサチューセッツ州知事が4人、アメリカ独立宣言の署名者5人を出した。ウィリアム・ロイド・ガリソンベンジャミン・フランクリン[6]およびルイス・ファラカーン[7]は最も有名な中退者でもある。

この学校は、ボストンの当初の開拓者の出身校でもあったイギリスリンカンシャーにあるボストン・グラマー・スクール(Boston Grammar School)をモデルにしていた。現在の生徒は1年後の1636年に設立されたハーバード大学がボストン・ラテン・スクールの最初の卒業生を受け入れるために作られたことを誇りにしている。これが真実であるにしろないにしろ、ボストン・ラテン・スクールはハーバード大学に進学者を出す一番の学校であり続け、最近でも毎年平均して25人を送り出している。毎年の卒業生約300人のうち99%以上は少なくとも4年制の大学に進んでいる。

1635年に設立されたときは男子生徒のみを受け入れ、男性の教師のみを雇っていた。最初の女子生徒を受け入れたのは19世紀半ばになってからであり、1859年にヘレン・マギル・ホワイトが最初の女子卒業生となり、その後1877年に博士号を取得した最初のアメリカ女性となった。しかしその後間もなく女子ラテン・スクールが設立された。その後1世紀近く、能力ある女子生徒は女子高に入学することになった。1972年になってやっとボストン・ラテン・スクールは共学校になった。

女性教師が入ってきたのは共学になる少し前の1967年のことであり、マリー・フリサーディ・クリアリー[8]とジュアニータ・ポンテ[9]が一般教養の最初の女性教員として指名された。

ボストン・ラテン・スクールでは最初の女性校長、コーネリア・ケリーは1998年から退職した2007年まで勤め[10]、その後任としてやはり女性のリン・ムーニー・テタが第28代校長となるべく選ばれた。ムーニー・テタは1986年の卒業生であり、それまでは副校長を務めていた[11]
教育理念

ボストン・ラテン・スクールのモットーはラテン語でSumus Primi、すなわち「我々が一番」である。これは二つの意味があり、この学校が設立された年と学問的な水準の双方の一番である。この学校はニューイングランドの大学進学エリート校として同じ標準を追求する歴史がある一方で、公立学校の平等主義的姿勢も採用している。学問的には、裕福なボストン郊外にある公立学校を常に凌駕しており、特にマサチューセッツ州の公立学校全てに要求される毎年のマサチューセッツ州包括的評価システムの結果がそうなっている。2006年、ニューヨーク市にブルックリン・ラテン・スクール(Brooklyn Latin School)が設立され、ボストンの伝統とカリキュラムから多くを導入して、明らかにボストン・ラテン・スクールをモデルにしていることが分かる[12]
入学

ボストン・ラテン・スクールへの入学は、独立学校入学試験の成績と最近の成績評価の組み合わせで決定され、ボストン市住民の子弟に限られている。7年生から12年生を教えているが、7年生と9年生のみの入学を認めている。比較的多くの生徒が転校して行くので、その結果として高学年生の数は低学年生の数を下回っている。歴史的に途中で落伍するか最後まで泳ぎ着くかという雰囲気にあったと言われてきたが、近年は生徒をより支援する雰囲気を作り出す顕著な努力が払われている。

ボストン市の教育システムはマサチューセッツ州内では最悪の教育レベルにあるとされる中で、ボストン・ラテン・スクールは高い成績を上げ評価も高いので、その入学選別方法に関する議論の中心になっている。入学試験は大変競争が激しく、志望倍率は5倍を超えることが普通である。1997学校年以前、入学者比率の少ない少数民族のために新入生の35%を別枠としていた。入学を認められた少数民族出身者よりも高い評点を挙げたにも拘らず入学できなかった少数民族出身者ではない女子生徒を巻き込む一連の訴訟の結果、この方針を降ろさざるを得なくなった[13]。その後入学選抜試験を全てなくし、くじ引きによって決めると言う裁判沙汰には勝訴した。1997年以降、ボストン・ラテン・スクール、ボストン教育委員会およびボストン・ラテン・スクール協会が少数派民族の志望者を受け入れ、より多くの少数派生徒を維持しようと努力したにも拘らず、少数民族のための35%枠は減少し、2005年には19%以下にまで下がった。ボストンの公立中学から受け入れなければならない生徒の枠を設けることを主張する者もいる。
カリキュラム

学校の伝統として熱弁が最も由緒あるものとなっている。7年生から10年生の生徒は1年間に3回、その英語の授業で演説を行うことが求められている。全学年あるいは全学級の生徒が集会の面前で暗記した演説を行う機会を試される弁論大会もある。弁論大会では、演説者のそれぞれが「記憶力」「表現力」「発声と話し方」といった面で点数を付けられ、4回の弁論大会で3位以内に入った者が「弁論賞」をかけて卒業生の審査員の前で演説する機会を与えられる。2009年の「弁論賞」受賞者はマーガレット・カーだった。1881年の校舎

英語の授業における良く知られ由緒ある伝統となっている弁論に加えて、最近近代言語部門が毎年「世界言語弁論大会」を開催するようになった。1年に1回、全国外国語週間(通常は3月の第1週)に[14]、8年生から12年生までの生徒が英語以外の言語で演説を行う。大半の生徒は勉強している現代言語で演説するが、ラテン語古代ギリシャ語あるいは出身地の言語を選ぶ者もいる。審査員は市内の様々な機関から選ばれ、弁論大会で使われるものと似たような評価面で点数をつける。出場者は言語よりもそのレベルで分類され、その言語を学び始めて1年目で演説する生徒は全て1年目の者同士で競い、2年目の者は2年目の者同士という具合になる。世界言語弁論大会でいつも群を抜いて発表する生徒はセリア・ゴードン・マルキール賞と共にプライズ・ナイトを授けられる。

卒業生の間で議論になった動きの中で、生徒達にラテン語を教える期間を1年間だけ減らすことが2001年に決められ、2006年の学年から始められた[15]。ラテン語の授業を受けなければならない期間は7年生入学の場合に5年間から4年間に、9年生入学の場合に4年間から3年間ということになった。この決断は学校のラテン語部門の長によってなされ、物理学、化学、コンピュータ科学や現代言語のような現代で重要な科目に十分な時間を割けるためには、ラテン語の授業がその障害になっていたという事実を認識した結果だった。しかし生徒は6年間を通じてラテン語を勉強することもできるし、多くの者が入学しようとする大学のアドバンストプレースメント(優秀な高校生が履修可能な大学レベルの科目)の数を最大にする目的もあって、6年間学ぶ道を選んでいる。

ベンジャミン・フランクリンは1789年にその遺言補足書で、卒業時に成績1位になった生徒を表彰するフランクリン・メダルの基金を設立した。ラテン語あるいは古代ギリシャ語で成績優秀だった生徒には、最も誉れ高い賞であるディクスウェル賞が与えられる。
出版

ボストン・ラテン・スクールでは現在2つの主要な出版物がある。「ザ・レジスター」はこの学校の文学誌であり、「ジ・アルゴ」は学校新聞である。1881年にジョージ・サンタヤーナが学校新聞として機能させるために「ザ・レジスター」を創刊した。しかし、長年の間に純粋に文学誌に変貌し、学生会の会員による散文や詩、さらには作品の絵を掲載している。通常は2人の編集長がおり、1年に2回発行している。「ジ・アルゴ」は学校新聞であり、歴史がはるかに浅く、「ザ・レジスター」が純粋に文学誌となってきたことが明白になった後に創刊された。2006年から2007年の学校年では1年間に7回発行された。「ザ・レジスター」も「ジ・アルゴ」も完全に生徒が作成しており、ニューイングランド学校新聞協会から賞を受けた。

ユーモア雑誌である「ランプーン」は散発的に発行されており、2006年以降は発行されていない。「ザ・カタパルタ」は2004年から2005年の学校年の春以降4回発行され、さらに新しい版が計画されている。

2003年から2004年の学校年に、「プレビアンズ・スピーク」(庶民は語る)と題する出版物が1度発行された。この無記名のパンフレットには、「ジ・アルゴ」であれば議論を呼ぶか扇動的であるとして検閲されていたかもしれない記事が載せられていた。その表題は、生徒(ある場合には教師も)が管理によって普通の重要でない人々と見なされるという編集者の信念を惹起させるものである。


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