ボストン・ブルーインズ
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ボストン・ブルーインズ
Boston Bruins
カンファレンス
イースタン・カンファレンス
ディビジョンアトランティック
創設年1924年 (100年前) (1924)
歴代チーム名ボストン・ブルーインズ
(1924 - )
ホームアリーナTDガーデン

ホームタウン アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ボストン
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チームカラーブラック、ゴールド
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メディア
オーナーデラウェア・ノース・カンパニーズ
GMドン・スウィーニー
ヘッドコーチブルース・キャシディ
キャプテンパトリス・バージェロン
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (6回)
1929・1939・1941・1970・1972・2011
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (5回)
1987?88, 1989?90, 2010?11, 2012?13, 2018?19
ディビジョン優勝 (24回)
1928・1929・1930・1931・1933・1935・1938・1971・1972・1974・1976・1977・1978・1979・1983・1984・1990・1991・1993・2002・2004・2009・2011・2012
プレジデンツトロフィー (2回)
1990・2013

ボストン・ブルーインズ(Boston Bruins)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンを本拠としているナショナルホッケーリーグNHL)所属のプロアイスホッケーチームである。
歴史
第二次大戦前

1924年、ボストンで食料雑貨販売業を営む有力者のチャールズ・アダムス (Charles Adams) の勧めにより、NHL はアメリカ合衆国にもチームを拡大することを決定した。長い間、ホッケーが盛んであったボストンがNHL の新チームを受け入れるのは極めて自然なことであった。アダムス一族は、この後50年間に渡ってブルーインズと名付けられたチームを所有した。最初の年には、リーグで最下位の成績であったが、圧倒的なファンの支持を集めた。当時のチームカラーの茶色と金色(後年に黒色と金色に変更される。)は、アダムスの営む食料品チェーン店に由来するものであった。

チーム発足後わずか3年目の1926-1927シーズンに、チームの運命は変転する。抜け目のないチームマネージャーのアート・ロス (Art Ross) が、ウェスタン・ホッケーリーグ (Western Hockey League) の解体という状況を活かし、同リーグに所属した有力選手を相次いで獲得したのである。これらの選手の中には、チーム初の偉大なるスター選手でディフェンスの エディ・ショア (Eddie Shore) が含まれていた。この年には、スタンレー・カップ決勝にまで進出し、オタワ・セネターズに敗れはしたものの、その2年後には、エディ・ショア、ハリー・オリバー (Harry Oliver)、ダッチ・ゲイナー (Dutch Gainor) そしてスーパースターとなったゴーリーのタイニー・トンプソン (Tiny Thompson) の活躍に支えられ、ニューヨーク・レンジャースを撃破し、カップ初優勝を達成した。その後1929-1930シーズンには、プルーインズは当時のNHL記録となるレギュラーシーズン最高勝率(0.875)の成績を残したが、カップ決勝ではモントリオール・カナディアンズに敗れた。

1930年代を通じて、何シーズンかの例外を除けば、ブルーインズはショア、トンプソン、ディット・クラッパー (Dit Clapper)、ベイブ・シーバート(Babe Siebert)、コーニー・ウェイランド(Cooney Weiland)ら傑出した選手の力により好成績を残したが、2度目のスタンレーカップを獲得するには、1938-1939シーズンを待たねばならなかった。その年、アート・ロスは、トンプソンを放出し未知の新人ゴーリーのフランク・ブリムセク(Frank Brimsek)を獲得するという、ホッケーをよく知るものにとっては暴挙ともいえるチーム改造を行った。

「ミスター・ゼロ ("Mr. Zero")」の異名を持つブリムセクは、ルーキーイヤーにおいてリーグに衝撃をもたらし、センターの ミルト・シュミット(Milt Schmidt)、左ウイングのボビー・バウワー(Bobby Bauer)、右ウイングのウッディ・デュマート (Woody Dumart)らのいわゆる“ドイツ軍団”やゲームメーカーのビル・コーリー(Bill Cowley)、ショア、クラッパーそして予想外のサドンデス・ゴール連発(プレイオフで延長ゴールを3つも決めた。)により英雄となったメル・ヒル(Mel Hill)らに混じって堂々の主役を演じ、ブルーインズはカップ優勝を飾った。

翌年度ショアはニューヨーク・アメリカンズにトレードされ、彼にとってNHL最後のシーズンを同チームで送った。しかしショアがチームを去ったにもかかわらず、ブルーインズはレギュラーシーズンで僅か8敗と驚異的な結果を残し、新コーチウェイランド(Weiland)の下、コーリー、“ドイツ軍団”、ブリムセクらの大活躍によりチーム3度目のスタンレー・カップ優勝を果した。
第二次大戦中及びオリジナル・シックス時代

不幸にして、第二次世界大戦が勃発すると、ブルーインズの戦力は、他のライバルチームよりもさらに衰退することとなった。ブリムセク、シュミット、デュマート、バウアーらは、1941年のシーズンを最後にすべて兵役に就き、選手として最も油の乗った時期を戦争によって失った。コーリーはクラッパーやバシャー・ジャクソン(Busher Jackson)らベテラン選手に支えられて、残されたチームのスターとなった。1943-1944シーズンには、NHL 自体が6チーム(後の時代には、誤って「オリジナル・シックス」チームと呼称される。)まで絞り込まれ、有能な選手の数が極端に減少して、ブルーインズのハーブ・カイン (Herb Cain) 選手が当時のNHL新記録となるシーズン82ゴールを上げるなど、シーズン全体が大味なものとなった。この年、ブルーインズはプレイオフ進出を果せず、カインはこの2年後チームを去った。

1945-1946シーズン、チームは復調を遂げ、新コーチ、クラッパーの指揮下でこの後連続4年プレイオフに進出した。しかし、不幸なことに復員した Brimsek に往時の力を望むすべなく、1946年以後3年連続で第1ラウンドで敗退することとなり、コーチ、クラッパーはチームから更迭される形となった。また、若手有力選手のドン・ガリンジャー(Don Gallinger)が私生活におけるギャンブルの問題で追放され、残された若手有望株がジョニー・ピアソン(Johnny Peirson:1970年代にチームのテレビ解説者となる。)のみになってしまうなど暗雲も漂い始めた。

それから後のブルーインズは、例えば、スタンレーカップ決勝に進出した1952-1953、1956-1957、1957-1958(いずれもモントリオール・カナディアンズに敗退)などいくらかのシーズンでは光彩を放ったものの、1941年以降およそ四半世紀に渡ってスタンレー・カップの優勝から遠ざかることとなるのである。

また、カナディアンズ、トロント・メープルリーフスデトロイト・レッドウィングスの3強豪がリーグを支配していた1947年から1967年までの間、ブルーインズはたった4期しか上手く行ったといえるシーズンはなかった。1960年から1967年まで8期連続で、プレイオフ進出を逃した。しかし、ファンの支援は高く、長年プロバスケットボールの世界チャンピオンとして君臨したボストン・セルティックスの人気をも凌ぐほどであったともいわれている。

この期間、ボストン・ブルーインズの若手選手養成制度は、他の5チームと比較して余裕がなく、不十分なものであったともいわれる。ボストン・ブルーインズは補強のため他チームにプロテクトされていない選手を探し、1958-1959シーズンには、NHL初の黒人選手ウィリー・オリー(Willie O'Ree)と契約を結んだ。また、1962-1963シーズンには、1960年スコーバレー冬季オリンピックで金メダルを獲得したアメリカ合衆国ナショナルホッケーチームからトミー・ウィリアムス (Tommy Williams) を獲得した(ウィリアムスは、当時NHL唯一のアメリカ人選手であった。)。
エクスパンション時代、「ビッグ、バッド、ブルーインズ」

1960年代後半になると、様相が一変する。ブルーインズは、1966-1967シーズンのドラフトで、後年史上最高のディフェンス選手と多くの者から目されることになる若き日のボビー・オア (Bobby Orr) を入団させた。また、史上最も一方的といわれるシカゴ・ブラックホークスとのトレードで、フィル・エスポジト (Phil Esposito)、ケン・ホッジ (Ken Hodge)、フレッド・スタンフィールド (Fred Stanfield) を移籍加入させた。

ホッジとスタンフィールドは、ボストンで期待どおりの活躍を見せたが、それにもましてエスポジトは、NHL選手としては初のシーズン100ゴールを突破した他、数々のゴール・ポイント記録を打ち立て、屈指の点取り屋としての才能を開花させた。ホッジやデレク・サンダーソン (Derek Sanderson) は、チームメートのウイング、ジョニー・ビュサイク (Johnny Bucyk) やジョン・マッケンジー (John McKenzie) らに加わり、ダラス・スミス (Dallas Smith)といった堅実なディフェンスやゴーリーの Gerry Cheevers を併せて、1960年代後半から1970年代にかけて、チームは、リーグ屈指の強豪として君臨する。この当時、乱暴で粗野なプレーにNHL史上でも類を見ない圧倒的な攻撃力を組み合わせた、ボストン・ブルーインズの通り名は、「ビッグ、バッド、ブルーインズ ("Big, Bad Bruins"、(注)破裂音 B の頭韻を踏んでいる。)」であった。

1969-1970シーズン、ブルーインズはセントルイス・ブルースを第4戦で破り、29年ぶりにスタンレー・カップを獲得する。この第4戦では、ボビー・オアは延長戦で決勝ゴールを決めた。このゴール後における、オアが勝利の喜びで腕を突き上げながら、空中を舞うシーンを収めた写真は、今日でもプロホッケーに関する写真の中でも相当に有名なものとなっている。

1971年は、ボストン・ブルーインズにとってある意味1970年代最高点に達した年であった。ブルーインズの支配力は大洪水のように圧倒的なもので、数十にも上る攻撃面での得点記録の更新に及んだ。リーグ得点の10傑には、ブルーインズの選手が7人も名を連ね(2005年現在で最高記録)、シーズン最多勝を記録、さらには1969年以前にはNHLで一人も出なかった100ポイント獲得選手をこの年4人も輩出した。


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