ボゴタ
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この項目では、コロンビアの都市について説明しています。その他の用法については「ボゴタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ボゴタ
Bogota


上左から、ボゴタ市中心部、モンセラーテの丘、旧市街、英雄記念碑、ボリバル広場、新市街の夜景、コルパトリア・タワー


市旗市章

愛称 : Atenas de America (アメリカ大陸のアテネ
位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯4度39分0秒 西経74度3分0秒 / 北緯4.65000度 西経74.05000度 / 4.65000; -74.05000
歴史
建設1538年8月6日[1]
旧名サンタフェ・デ・ボゴタ
創設者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)
行政
 コロンビア
  クンディナマルカ県
首都地区
 市ボゴタ
市長クラウディア・ロペス
地理
面積 
  市域1,587 km2
標高2,640 [2] m
人口
人口(2019年7月現在)
  市域8,281,030人
    人口密度  5,218人/km2
その他
等時帯UTC-5 (UTC-5)
夏時間なし
ISO 3166-2CO-DC
公式ウェブサイト : ⇒http://www.bogota.gov.co/

ボゴタ(スペイン語: Bogota [bo?o?ta] ( 音声ファイル))は、コロンビア首都アンデス山脈の盆地、標高2640メートルに位置しており、ラパスキトに次いで世界で3番目に標高の高い首都である[2]人口は約770万人で、2020年現在の都市圏人口は1,000万人を超えるメガシティであり、世界最高地の大都市である[3]。ボゴタには図書館大学が多いことから、文化の中心という意味で「南米のアテネ」というニックネームがついている[4]

1991年に名称がサンタ・フェ・デ・ボゴタ(Santa Fe de Bogota)に変わったが、2000年に再び現在の名称になった。

2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第52位の都市と評価された[5]南米大陸ではブエノスアイレスサンパウロに次ぐ第3位である。
地理

ボゴタ・サバナと呼ばれる亜熱帯高地に位置する。東をアンデス山脈の東コルディレラ山地に阻まれ、西にボゴタ川が流れる山間部を南北に都市が発達した。

市域・市街地ともに南北に細長く伸びている。おおまかに中央部から北部にかけては高級住宅街、南部は貧困地区が広がっている[6]。西部は工場が多く立地し、市の西端にはエルドラド国際空港がある。ボゴタ市は他のスペイン植民都市と同じく碁盤の目にきちんと区切られた街路を持っており、東西に走る道をカジェ(Calle)、南北に走る道をカレラ(Carrera)と呼ぶ。

1538年に創建された当時のボゴタ市は、現在のラ・カンデラリア区に相当する。ラ・カンデラリア区にあるボリバル広場はボゴタ旧市街の中心であり、現在でも南を国会議事堂、北をコロンビア最高裁判所、東をボゴタ大聖堂、西をボゴタ市庁舎に囲まれたボゴタの行政の中心となっている。ボリバル広場の周辺には、ほかにも大統領官邸や独立博物館、ボテロ博物館、コロン劇場などの名所が点在する。

ラ・カンデラリア区を取り巻くように存在するサンタフェ区も古い中心地であり、ボゴタの旧名であるサンタフェはこの地を指している。この地区には先植民地期の黄金製の美術品を集めた黄金博物館がある。近くにはコロンビア特産であるエメラルドの逸品を集めた国際エメラルド博物館が2008年に開館した[7]

市街の東にあるモンセラーテの丘は、市街を一望できる景勝地として名高く、ロープウェイケーブルカーがそれぞれ運航している。

市内に点在する湖沼湿地群(カペジャニア湿地(スペイン語版)、ラ・コネヘラ湿地(スペイン語版)、コルドバ湿地(スペイン語版)、エル・ブロ湿地(スペイン語版)、ハボケ湿地(スペイン語版)、フアン・アマリージョ湿地(スペイン語版)、ラ・バカ湿地(スペイン語版)、サンタ・マリア・デル・ラゴ湿地(スペイン語版)、ティバニカ湿地(スペイン語版)、グアイマラル・イ・トルカ湿地(スペイン語版)、エル・トンホ湿地)にはナンベイクイナ、オオヌマミソサザイ(英語版)などのアンデス山脈の固有種が生息しており、2018年にラムサール条約登録地となった[8]
行政区

ボゴタ市は20の区に分かれている。ボゴタは国内避難民が多く住む都市だが、こうした国内避難民はシウダー・ボリバル、ケネディ、ウスメ、およびボサ区に主に居住している。

図内の各区は、1 - ウサケン、 2 - チャピネロ、 3 - サンタフェ、4- サン・クリストバル、 5 - ウスメ、6 - トゥンフエリト、 7 -ボサ、 8 - ケネディ、9 - フォンティボン、10 - エンガティバ、11 - スバ、12 - バリオス・ウニドス、13 - テウサキジョ、14 - ロス・マルティレス、15 - アントニオ・ナリーニョ、 16 - プエンテ・アランダ、17 - ラ・カンデラリア、18 - ラファエル・ウリベ、19 - シウダー・ボリバル、20 - スマパス区となっている。なお、20のスマパス区は北端のみ表示されており、実際にはこの図全体を含めたよりもはるかに長く南へと延びている。
左が北
隣接する県

クンディナマルカ県

メタ県

ウイラ県

気候

ボゴタは西岸海洋性気候 (Cfb) に属する[9]。標高が高いため気候は高山気候性を示し、赤道に近いにもかかわらず年間通じて穏やかな気候である。年平均気温は14.5℃である[10]。気温は年間通じてほとんど差がないものの、内陸部にあるため一日の気温の差が非常に大きい。降水量はそこまで多いほうではないが、降水日数が多い。日中の最高気温は年間を通じ19度C前後、最低気温は6?8度Cである。年間を通じ、雨季と乾季が交互に交代する。最も乾燥する月は12月、1月と7月、8月である。降雨は4・5月と9?11月にやや多く80?110mm、他の期間は40?60mmである。早朝にはがかかることが非常に多く、年間220日は霧がかかっており[11]、一日中ずっと日の出ている日は非常に珍しい[11]

市域内で記録された最高気温は30.0度であり[12]、最低気温は-7.1度である[12]


国立気象台, ボゴタD.C. (1970?1999)の気候月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)26
(79)25
(77)27
(81)24
(75)25
(77)29
(84)25
(77)23
(73)26
(79)25
(77)26
(79)24
(75)29
(84)
平均最高気温 °C (°F)20
(68)20
(68)19
(66)20
(68)19
(66)19
(66)19
(66)19
(66)19
(66)19
(66)20
(68)20
(68)20
(68)
日平均気温 °C (°F)14
(57)14
(57)15
(59)15
(59)15
(59)14
(57)15
(59)14
(57)14
(57)14
(57)14
(57)15
(59)15
(59)
平均最低気温 °C (°F)8
(46)8
(46)9
(48)10
(50)10
(50)9
(48)9
(48)9
(48)9
(48)9
(48)9
(48)8
(46)9
(48)
最低気温記録 °C (°F)?1
(30)?5
(23)-0
(32)0
(32)0
(32)1
(34)0
(32)0
(32)0
(32)2
(36)0
(32)?1
(30)?5
(23)
降水量 mm (inch)50
(1.97)68
(2.68)91
(3.58)135
(5.31)120
(4.72)54
(2.13)35
(1.38)45
(1.77)70
(2.76)137
(5.39)127
(5)81
(3.19)1,012
(39.84)
平均降雨日数 (?1 mm)91214181917151416211611181
湿度75767577777574747576777676
平均月間日照時間156128107888394114117109961031381,328
出典:Instituto de Hidrologia, Meteorologia y Estudios Ambientales (IDEAM)[12]

歴史「ボゴタの歴史(英語版)」も参照
植民地期までボゴタ旧市街

スペイン人が到来するまで、この地域に居住していたのはチブチャ族系のムイスカ族であり、ジャガイモトウモロコシなどの農業を基盤とした大規模な首長制社会を形成していた。彼らはボゴタ北方のシパキラなどでを採掘し、この地方では産出しないなどと交換していた。この金を用いてムイスカ族は金細工を制作したほか、ボゴタ市の57km北にあるグアタビータ湖では、その土地の首長が全身に金粉を塗り水中に奉納品を沈めたのち泳いで戻ってくる儀礼がおこなわれており、このうわさがスペイン人に広がる過程で変形して、エル・ドラード(黄金郷)伝説の一つの源流となった。

1538年、ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)率いる探検隊が大西洋岸のサンタ・マルタから南下してこの地にたどりつき、ムイスカ族を征服してこの地に植民都市サンタ・フェ・デ・ボゴタを建設した。ボゴタの名はムイスカ族の当時の首長だったバカタに由来する。1549年にはアウディエンシアが置かれ地方の政治の中心となったものの、ボゴタが行政都市として重要性を持つようになるのは1717年にヌエバ・グラナダ副王領が創設され、ボゴタにその首府が置かれてからである。この副王領は一時廃止されたものの1739年に再設置され、以後独立までの間、北アンデス地域を統括する行政中心としてボゴタは栄えた。
独立戦争

1808年ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍スペイン本国に進攻すると(スペイン独立戦争)、南アメリカのスペイン領では独立運動が相次ぐようになり、ボゴタにおいても1810年7月20日には副王が追放され、クリオーリョによってクンディナマルカ共和国が誕生した。この日がコロンビア共和国では独立記念日に指定されているが、このクンディナマルカ共和国は中央集権体制を目指したため、この後トゥンハに首都を置き地方分権体制を掲げるヌエバ・グラナダ諸州連合と内戦を繰り広げた。この内戦はシモン・ボリバル率いるヌエバ・グラナダ軍が勝利し、1814年にはボリバルはボゴタに入城し、現コロンビアの領域はヌエバ・グラナダ諸州連合によって統一された。この際諸州連合は首都をボゴタへと移し国内統一を図ったが、ボゴタ内には不満分子が多く、さらに1814年にナポレオンがスペインから撤退したため安定したスペイン本国から増援が送られたため、1816年にはボゴタは陥落し、スペインによって再征服された。しかしボリバルはベネズエラ東部のアンゴストゥーラ(現シウダー・ボリバル)からリャノとアンデス山脈を越えてボゴタをめざし、1819年8月7日に市北部のボヤカにおいてシモン・ボリバル率いる革命軍がスペイン軍を破り、サンタフェ(ボゴタ)へ入城。これによってボゴタは解放され、南米北部はグラン・コロンビア共和国として独立を果たした。市名をボゴタへと改称したこの街は中央集権的な政権を望むボリバルによってグラン・コロンビアの首都が置かれるが、同国はベネズエラ、クンディナマルカ(コロンビア)、エクアドルの3州が対立して1830年に崩壊。ボゴタはコロンビアのみの都となった。
近現代

その後は行政都市として発展していったが、コロンビアは地形的な要因で地方の力が強く、また保守派と自由派の対立も頻繁でしばしば内戦が起こり、ボゴタの中央政権の力は弱く、そのため発展はゆっくりとしたものとなった。それでも1793年に2万人だったボゴタの人口は、1870年代からの主に東部高地からの住民の流入によって、1912年には11万7千人にまで増加していた[13]1884年12月25日にはボリバル広場とチャピネロの間にラバによる軌道が敷設され[14]、数年後には市内電車となった。1892年には市内電車はボリバル広場からラ・サバナ駅にまで伸び、1894年にはボゴタとチャピネロ間は20分間隔でトラムが運航していた。このトラムは1948年まで運行し、その後バスに置き換えられた。1920年代に入ると工業が興り、次第に大都市として発展していった。

しかし保守自由両派の対立は収まらず、1948年には米州機構創設のための第9回米州国際会議が開催されている最中のボゴタ市中心部において、ボゴタ市長もつとめた自由党党首ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺された[15]のをきっかけに「ボゴタソ」と呼ばれるボゴタ大暴動が勃発。1500人から3000人が死亡し、さらにこの混乱は地方にも波及し、「ラ・ビオレンシア」と呼ばれる内戦状態へと突入した[16]


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