ボエモン1世
コンスタンス公妃とボエモン2世
アンティオキア公
在位期間
1098年 ?1111年
摂政タンクレード
次代ボエモン2世
ターラント公
在位期間
1088年 ? 1111年
先代ロベルト・イル・グイスカルド
次代ボエモン2世
出生1054年ごろ
サン・マルコ・アルジェンターノ
カラブリア
アプリア・カラブリア伯国
ボエモン1世 (イタリア語:Boemondo I d'Antiochia) (1054年ごろ - 1111年3月5日又は7日[1])とは、11世紀から12世紀にかけて活躍したノルマン人貴族である。ターラント公(在位1089年ー1111年)、アンティオキア公(在位1098年ー1111年)を歴任した[2]。ボエモンは第1回十字軍の指導者の一人として参加し、ノルマン人部隊を率いて遠征で活躍した。十字軍遠征が行われる以前に父ロベルト・イル・グイスカルドが起こした東ローマ帝国とのノルマン・東ローマ戦争に参加した経験があったことから東ローマに対する知見が深く、この十字軍遠征に参加した諸侯の中でも特に経験豊富な指揮官として貢献したという[3]。 ボエモンはアプリア伯兼カラブリア伯
若年期
子供時代
ロベルトとアルベラダは教会法に反する程度の近親関係にあったとされる[4]。1058年、ローマ教皇ニコラス2世は血縁関係に対する既存の教会法を強化する政策を施行し、それによってロベルトはアルベラダと離婚し、ランゴバルド人サレルノ公(英語版)ギスギフ2世(英語版)の妹シセルガティア(en:Sikelgaita)と結婚した。シセルガティアとの婚姻によってランゴバルド人との関係構築が図れたためであるとされている[5][9]。ロベルトとアルベラダとの婚姻関係の無効化が宣言されたことにより、ボエモンはロベルトの落とし子という立場に置かれるようになった[5][10]。ロベルトとの離婚からそう時間が経たないうちに、アルベラダはロベルトの甥リッカルド・ディ・オートヴィル(英語版)と結婚した[9]。そして彼女はボエモンに対して騎士道教育を施した[11]。良い教育環境に置かれたボエモンは、マルチリンガルとして育ち、母国語の古ノルマン語(英語版)に加えてロンバルド語を読み書きできた可能性が強く示唆されており、また中世ギリシャ語は話すことができ、もしかすると読むこともできた可能性も考えられている。[12]。
1073年初頭、ロベルトは重い病に臥せっていた[13][14]。ロベルトの死を恐れた後妻シセルガティアはバーリに諸侯を集め[14] 、そこでロベルトの家臣たちに対して彼女の13歳の息子ルッジェーロ・ボルサがノルマン人とランゴバルド人のハーフであることから、ロジャーは南イタリアのランゴバルド貴族に最も受け入れられやすい指導者になるだろうと主張し、彼がロベルトの後継者であると宣言するよう説得を試みた[13][15]。ロベルトの甥アベラード (en:Abelard of Hauteville) は唯一、シセルガティアの主張に対して反発した貴族であった。彼は自身がロベルトの後継者であると自認していたためである[16]。バーリのノルマン式城砦 ボエモンは1079年に父の軍勢に従ってカプア伯ジョルダーノ1世
ビザンツ戦役
1082年2月21日、ビザンツ軍を駆逐したノルマン軍はドゥッラキウムを占領した[21][22]。ノルマン軍はその後、エグナティア街道に沿ってカストリアまで進軍したが、アレクシオス帝の策略により南イタリアでロベルトに対する反乱が勃発したことで、ロベルト・イル・グイスカルドは同年4月にギリシャを離れ、反乱鎮圧のためにイタリアに帰還した[22][23]。