ボイコ・ボリソフ
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 ブルガリア政治家ボイコ・ボリソフБойко Борисов
ボイコ・ボリソフ(2014年3月)
生年月日 (1959-06-15) 1959年6月15日(64歳)
出生地ブルガリア人民共和国
ソフィア地区バンキャ
前職内務省職員
所属政党ブルガリア共産党
シメオン2世国民運動
ヨーロッパ発展のためのブルガリア市民
配偶者ステラ・ボリソヴァ(離婚)
サイン
公式サイト ⇒Бойко Борисов - официален сайт
第60・62-63代 ブルガリア共和国首相
在任期間2009年7月27日 - 2013年3月13日
大統領ゲオルギ・パルヴァノフ
在任期間2014年11月7日 - 2017年1月27日
大統領ロセン・プレヴネリエフ
在任期間2017年5月4日 - 2021年5月12日
大統領ルメン・ラデフ
ソフィア市長
在任期間2005年11月8日 - 2009年7月27日
ブルガリア内務省事務長官
在任期間2001年 - 2005年
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ボイコ・ボリソフ

名前
キリル文字Бойко Борисов
基本情報
国籍 ブルガリア
選手情報
在籍チームヴィトシャ・ビストリツァ
ポジションフォワード
背番号13

クラブ1
年クラブ出場(得点)
2007?2012ヴィトシャ・ビストリツァ 21 (27)
2013?2014ヴィトシャ・ビストリツァ 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ボイコ・メトディエフ・ボリソフ(ブルガリア語: Бойко Методиев Борисов, ラテン文字転写: Boyko Metodiev Borisov、1959年6月13日 - )は、ブルガリアの政治家[1][2][3]ヨーロッパ発展のためのブルガリア市民(GERB)の実質的な指導者であり、2005年11月から2009年7月まで同国の首都ソフィアの市長を、2009年7月から2013年3月と2014年11月から2017年1月と2017年5月から2021年5月まで首相をそれぞれ務めた。また、2013年にヴィトシャ・ビストリツァの選手として、54歳でブルガリアサッカー2部リーグに出場し、同国のプロサッカーリーグに出場した最年長選手となった[4]
来歴
生い立ち

ソフィアバンキャにおいて、内務省職員のメトディ・ボリソフ(Методи Борисовч)と、小学校教師のヴェネタ・ボリソヴァ(Венета Борисова)の子として生まれた。1982年から1990年まで内務省職員として、消防士および警察学校の教師を務めた[5]1990年に内務省の職を離れ、1991年には民間警備会社Ipon-1を設立し、トドル・ジフコフやシメオン2世(シメオン・サクスコブルクゴツキ)といった人物の警備を引き受けている。ボリソフは1980年から空手をやっており、ブルガリア代表のコーチや国際試合の審判員の経験もある。

現在のボリソフは結婚していないが、経済投資銀行の総裁ツヴェテリナ・ボリスラヴォヴァ(Цветелина Бориславова)と同居している。また、かつての妻ステラ(Стела)との間に娘のヴェネタ(Венета)がいる。ボリソフの祖父は1944年ブルガリア・クーデター(英語版)の中で処刑されており、このことは1989年までの社会主義政権下での本人の学業や職に関して負の要因となった[5]
ブルガリア内務省事務長官、ソフィア市長

2001年から2005年までの間、ブルガリア内務省の事務長官を務めた[6][7][8][9][10][11]2005年の総選挙ではシメオン2世国民運動の候補として出馬し、当選したものの内務省事務長官の職に留まり、議員にはならなかった。また、同じ年にソフィア市長に立候補して当選し、前任のステファン・ソフィヤンスキ(英語版)(Стефан Софиянски)に代わって市長に就任した。

2006年にはヨーロッパ発展のためのブルガリア市民(GERB)を結党した。GERBは2007年5月20日の2007年欧州議会選挙(英語版)で低投票率(28.6%[12])の中で初めての勝利を挙げ、ボリソフは早期の総選挙を求める声を宣伝する機会を得た。ボリソフは公的なGERBの党首ではないもの、実質的にGERBの指導者とみなされている[13]。GERBの公式の党首は内務省職員・ソフィア副市長としてボリソフの下で働いてきたツヴェタン・ツヴェタノフ(英語版)(Цветан Цветанов)である。
ブルガリア首相

ボリソフ率いるGERBは2009年7月5日国民議会選挙で39.71%の得票率を出し、240議席中116議席を確保した[14][15]。ボリソフはGERBを中心とした中道右派政権の首班として、7月27日に第50代ブルガリア首相となった[3]。2013年2月20日、電力・暖房料金の値上げに端を発した大規模な抗議行動の責任を取る形で首相辞任を表明、翌21日の国民議会における採決で総辞職は可決された[16]

2014年11月7日、10月5日の議会選挙に勝利したことにより再び首相に就任。 2016年11月13日に投開票された大統領選挙で与党GERB候補のツェツカ・ツァチェバ(英語版)議会議長が野党・ブルガリア社会党候補のルメン・ラデフ前空軍司令官に敗北したことで首相を退く意志を表明[17]。首相辞任に伴い前倒しで2017年3月26日に投開票された総選挙では社会党の躍進を許したものの、GERBは第一党を維持した[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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