ホームステッド法
[Wikipedia|▼Menu]
1898年ノース・ダコタ州におけるノルウェー系アメリカ人植民者。ホームステッド(自営農地)とソッド・ハウスの前で

ホームステッド法(: Homestead Act)は、アメリカ合衆国1862年に制定された法律であり、アメリカ西部の未開発の土地、1 区画 160 エーカー(約 65 ヘクタール)を無償で払い下げるものであり、自営農地法とも呼ばれる。この法律は1862年5月20日エイブラハム・リンカーンが署名して発効した[1][2][3][4]

最終的に1862年から1986年の間に160万件の土地払い下げが認められ、その面積は2億7,000万エーカー(108万平方キロメートル)で、アメリカの国土の10%に達した[5]
概要
背景ホームステッド法(1862年)によってあたえられたネブラスカ州での自営農地証明

ホームステッド法は1841年の先買権法による公有地の払い下げ制度をさらに自由化する意図があった。アメリカの政治史ではヨーマン(独立自営農)という概念が伝統的に有力で、ホームステッド法でその数を増やそうという動きは1850年代から存在していた。しかし、自由農民を増やすことはプランテーション経済に頼る南部奴隷制を脅かすものとして、南部が強く反対していた[6][7]。ジョージ・ヘンリー・エバンスとホレス・グリーリーがホームステッド法の成立に重要な役割を果たした[8][9]。土地の無償払い下げを求める活動は1844年に始まっており、何度も議会に提出されては廃案になっていた[10]が、1861年に南部の諸州が合衆国から脱退し議会を去ったため、障害が無くなり法案は議会を通過した[3][4][11]
制定

1862年5月20日、アメリカ合衆国16代大統領エイブラハム・リンカーンが署名し、ホームステッド法(自営農地法)が発効した[1][2][3][4]。これによって、公有地をみずから耕作しようとする者には160エーカー(約64.6ヘクタール)の土地が無償で与えられることとなり、西部農民の年来の念願がようやくかなった[12]。払い下げを受けようとする者は、申請時に 21 歳以上で、当該区画を確立し、12 フィート x 14 フィート(3.6 x 4.3 メートル)以上の大きさを持つ住居を建てた上で、最低 5 年間は農業を営んだという実績が必要であった[注釈 1]

西部開拓の視点からみれば、この法による植民よりも土地会社などから土地を購入して西部に移り住んだ人の方が多かったが、一方で「機会均等」という「アメリカン・ドリーム」を裏打ちする仕組みとして大きな意味をもっていた[12]。そして、西部が発展し、人口が増加し、農牧業が振興されることは、アメリカの工業生産にとっても市場の拡大を意味し、工業と農業の相互補完的な発展が可能となった[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef