ホープダイヤモンド
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ホープペンダントから取り外されたホープダイヤモンド
質量45.52 カラット (9.1 g)
色ファンシー・ダーク・グレーイッシュ・ブルー
カットアンティーク・クッション
発掘国 インド共和国
アーンドラ・プラデーシュ州?
発掘鉱山コラール鉱山?
発見日不明
現在の形で登場する最古の文献はイギリスの宝石商ダニエル・エリアーソンが所有していたという1812年9月の記録。
カット者不明
フレンチ・ブルーからの切り出しは1791年以降
その後1949-1958年の間のいずれかに、ハリー・ウィンストンの手によりわずかに削られる。
初期所有者不明
ただしその後の来歴には数多くの名が記されている
一例を挙げるとフランスの宝石商ジャン=バティスト・タヴェルニエ、フランス国王ルイ16世、名の由来となったイギリスの銀行家ヘンリー・ホープ等など。
現所有者 アメリカ合衆国 国立自然史博物館 (アメリカ)
推定価格2-2.5億ドル
ホープダイヤモンド。白金製のペンダントの中央に飾られている タヴェルニエが持ち帰った当時のホープダイヤモンドのレプリカ(キュービック・ジルコニア製)。彼のスケッチに基づき再現 ルイ15世が作らせた「フランスの青」を含む金羊毛騎士団用ペンダントのレプリカ(2010年

ホープダイヤモンド(Hope Diamond)は、現在スミソニアン博物館のひとつである国立自然史博物館に所蔵されている45.52カラットのブルー・ダイヤモンド[1]

クラリティはVS1。

紫外線を当てると、1分以上に渡って赤い燐光を発する。紫外線を当てられて発光するダイヤモンドは珍しくないが(ダイヤモンドのうちおよそ1/3は紫外線を当てると発光する)、赤くしかも1分以上も光り続けるというのは極めて珍しく、現在のところその原理は解明されていない。

青い色の原因は、不純物として含まれるホウ素が原因であることが解析の結果判明したが、ダイヤモンドが生成される地下深くでは、ホウ素はほとんど存在しないとされている。このため、「なぜダイヤモンドの生成時にホウ素が含まれたのか?」についても謎となっている。[2]

いわゆる「持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく『呪いの宝石』」として有名であるが、その伝説は大幅に脚色されている(後述)。

現在では、ホープダイヤはその周りに16個、鎖に45個のダイヤをはめ込んだ白金製のペンダントの中央を飾っている。目次

1 歴史

2 呪いの伝説

3 大きさの変遷

4 エピソード

5 ホープ・ダイヤモンドを扱った(または類似した物が出てくる)作品

6 脚注

歴史

9世紀頃、インド南部のデカン高原にあるコーラルという町を流れる川で、農夫により発見される。

以下は確実な史料に基づく内容である。
1660年(または1661年
フランス人ジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier)がダイヤを購入。112と3/16カラットあった。「呪いの伝説」ではヒンドゥー教寺院に置かれた女神シータの彫像の目に嵌められていた2つのうちの1つを盗み、それに気づいた僧侶があらゆる持ち主に呪いをかけたとされる。また、タヴェルニエは「直後に熱病で死んだ」あるいは「狼に食べられて死んだ」ことになっているが、そのような事実はなく、84歳まで生きながらえ、死因は老衰であった。
1668年
タヴェルニエからフランス王ルイ14世がダイヤを購入。カッティングされ67と1/8カラットの宝石となり、「王冠の青」あるいは「フランスの青(フレンチ・ブルー)」「ブルーダイヤモンド」(fr)と呼ばれた。このダイヤは王の儀典用スカーフ(クラバット)に付けられた。
1749年
フランス王ルイ15世は、このブルーダイヤを自らの金羊毛騎士団用ペンダントに付け直した。
1792年9月11日
6人の窃盗団が王室の宝玉庫に侵入し、ブルーダイヤモンドを含む宝石類を強奪。当時はフランス革命のさなかで、国王一家は囚われて幽閉されていた。窃盗団の一人、士官候補生ギヨは、宝石類を後にルアーブルロンドンで売りつけようとしていたことがわかっており、実際に1796年には別の宝石を売っているが、ブルーダイヤに関する記録はない。
1812年9月
イギリスのダイヤモンド商ダニエル・エリアーソンがあるダイヤモンドを所有していたことが記録に残っている。このダイヤが「ブルーダイヤモンド」から切り出されたものであることが、2005年にスミソニアン協会によって、また2008年にはフランス国立自然史博物館によって、最終的に確認された。これが今日につながるホープダイヤモンドである。このタイミングが窃盗からちょうど20年後であったことに、犯罪の時効との関連を見る向きもある。また、イギリス王室の記録にはないが、ジョージ4世がこのダイヤを所有していたと信じる人もいる。
1824年
ヘンリー・フィリップ・ホープの宝石コレクションとして記録される。彼はこのダイヤをブローチに取り付けて、義理の姉妹に当たるルイーズ・ベレスフォートにダイヤをしばしば貸し出し、彼女は社交パーティでそれを使った。「呪いの伝説」では「1830年頃にロンドンの競売で1万8000ポンドで落札した」とされる。
1839年
ヘンリー・フィリップ・ホープ死去。以後3人の甥が10年以上に渡ってこのダイヤを含む宝石の所有権を裁判で争った。その結果、ヘンリー・ホープがこの宝石の相続人となる。ヘンリー・ホープは、1851年ロンドン万博1855年パリ万博にこのダイヤを展示したが、普段は銀行の大金庫に保管していた。
1862年12月4日
ヘンリー・ホープ死去。妻のアデルがこのダイヤを引き継ぐ。「呪いの伝説」では「ヘンリー・ホープは生涯独身だった」とされるが、事実ではない。
1884年3月31日
アデル死去。
1887年
ヘンリーとアデルの孫(娘の子息)であるヘンリー・フランシス・ホープ(以下フランシス・ホープと略記)が、このダイヤを「ホープ・ダイヤモンド」と名付けることを条件に、アデルの遺産類を相続。しかしそれは終身保有権に限られており、裁判所の許可なしにはホープダイヤの売却はできなかった。
1894年11月27日
フランシス・ホープ、アメリカ人女優のメイ・ヨーヘと結婚。メイは「ホープダイヤをいつも社交界で身につけ、女優業のために精巧な複製も作った」と証言したが、フランシスはこれを否定している。
1896年
フランシス・ホープ破産。ホープダイヤの売却を迫られ、メイもそれを手助けした。
1901年
フランシスにホープダイヤの売却の許可が下りるが、メイは元ニューヨーク市長の子息のもとに走り、翌年フランシスとメイは離婚。フランシスは1904年に再婚する。再婚した夫人は1912年に亡くなり、しばしば「呪いの結果」といわれるが、3人の子どもをフランシスとの間にもうけている。ホープダイヤは1902年頃に2万9000ポンドでロンドンの宝石商アドルフ・ウィルが買い取り、アメリカのダイヤモンド商サイモン・フランケルに売却する。フランケルはダイヤをニューヨークに持ち込み、14万1032ドル相当と評価される。
1908年
フランケル、ホープダイヤをパリのソロモン・ハビブに売却。
1909年6月24日
ハビブの債務弁済のためオークションに出され、約8万ドルでパリの宝石商ローズナウがホープダイヤを落札。
1910年
ローズナウ、ホープダイヤを55万フランでピエール・C・カルティエ(英語版)に売却。
1911年
カルティエ、ホープダイヤ宝石を装飾し直してアメリカの社交界の名士エヴェリン・ウォルシュ・マクリーンに売却。マクリーンは当初ホープダイヤを使わなかったが、やがて社交の場でいつも身にまとうようになった。


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