ホーネット_(CV-8)
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ホーネット
1942年7月
基本情報
建造所バージニア州ニューポート・ニューズ造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種航空母艦
級名ヨークタウン級
愛称ファイティング・レディ (Fighting Lady)
ハッピー・ホーネット (Happy Hornet)
ハッピー・マル (Happy Maru)[1]
艦歴
発注1933年3月30日
起工1934年9月25日
進水1940年12月14日
就役1941年10月20日
最期1942年10月27日、南太平洋海戦において戦没
除籍1943年1月13日
要目
基準排水量20,000 トン
満載排水量25,500 トン
全長824フィート9インチ (251.38 m)
水線長770フィート (230 m)
最大幅114フィート (35 m)
水線幅83フィート3インチ (25.37 m)
吃水28フィート (8.5 m)
主缶バブコック&ウィルコックス製水管ボイラー×9基
主機パーソンズ蒸気タービン×4基
出力設計:120,000馬力 (89,000 kW)
公試:120,517馬力 (89,870 kW)
推進器スクリュープロペラ×4軸
最大速力32.5ノット (60.2 km/h)
航続距離12,500海里 (23,200 km)/15ノット時
乗員士官・兵員2919名(戦時)
兵装
竣工時
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5インチ単装砲×8基

四連装1.1インチ対空機銃×4基

50口径機関銃×24基

最終時


5インチ単装砲×8基

四連装1.1インチ対空機銃×4基

20ミリ機関砲×32基

装甲

水線部:2.5-4インチ (64-102mm)

甲板部:4インチ (102mm)

水密隔壁:4インチ (102mm)

司令塔:側面4インチ (102mm)、天面3インチ (75mm)

操舵装置:4インチ (102mm)

搭載機72機
その他エレベーター×3基
カタパルト×3基(飛行甲板2、格納庫1)
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ホーネット (USS Hornet, CV-8) は、アメリカ海軍航空母艦ヨークタウン級航空母艦の3番艦。艦名はスズメバチの英語名に因む。アメリカ海軍においてホーネットの名を受け継いだ艦としては7隻目にあたる。Happy Hornet Horny Maru といった愛称をもつ[2]

ミッドウェー海戦に繋がるドーリットル空襲を行ったドーリットル隊の母艦として有名であるが、1942年10月南太平洋海戦にて沈没した。
艦歴
計画

ワシントン海軍軍縮条約が1938年に失効したことからアメリカにおいても新たな海軍増強計画が立てられたが、建造を急ぐためにまずは条約型空母のヨークタウン級の設計を使って一隻新造することを決定した。こうしてヨークタウン級3番艦「ホーネット」が誕生したが、条約の制限がなくなったため排水量を約100トン、全長も約8m拡大する等の修正が加えられ、改良型ともいえる。
進水1941年10月27日、就役直後

「ホーネット」は1940年12月14日に海軍長官フランク・ノックス夫人、アニー・リード・ノックスによってバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で進水し、1941年10月20日に初代艦長マーク・ミッチャー大佐の指揮下就役した。進水式の模様は日本でも『日本ニュース』第34号で報じられたが、船名は「ホーネ号」と称されていた。

なお、「ホーネット」に施された迷彩塗装はアメリカ海軍の採用していた「メジャー12」と呼ばれるもので、就役中に修正されたパターンを導入されている[3]。すなわち艦体の上半分を明るいグレー、下半分を濃紺色で塗り分けるというもので、途中から塗り分けの境目を単純な一直線から複雑な波型に改め、艦橋にも濃いグレーの模様を描き加えている。
ドーリットル攻撃詳細は「ドーリットル空襲」を参照

真珠湾攻撃前の日米関係が不安定な時期に、「ホーネット」はノーフォークから訓練航海に出航した。1942年に入って間もなく、13ミリ機銃が全て20ミリ機銃に交換された。1月31日、慣熟訓練は全て終了した[4]。2月2日、将来の任務のヒントになる「事件」が起こった。この日、「ホーネット」は2機の陸軍航空隊所属のB-25爆撃機を搭載していた。海上での2機のB-25 は、艦の乗員に驚きと戸惑いを与えた。「ホーネット」は戦闘準備のためノーフォークに帰港し、1942年3月4日にパナマ運河経由で西海岸へ出航したが、乗員にはB-25での訓練が何を意味したのか気が付く者はなかった。ドーリットル隊を発艦させる「ホーネット」

「ホーネット」は3月20日にアラメダの海軍基地に到着した。3月27日には、陸軍航空隊所属のB-25がアラメダに到着[5]。「ホーネット」では固有の艦載機を格納庫に収納し、3月31日と4月1日に16機のB-25を飛行甲板に搭載した[5]。これと同時に、ジミー・ドーリットル中佐指揮下の70名の士官と64名の兵員が乗艦した。ホーネットを中心とする部隊は第18任務部隊を名乗った[6]。また、ホーネットを援護するため、ウェーク島および南鳥島への攻撃から帰投したばかりの空母「エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 」を中心とする第16任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)が合流して護衛任務にあたることとなった[7]

「ホーネット」は4月2日、陸軍航空隊員にその命令を秘密にしたままサンフランシスコを出航した。その日の午後、ミッチャー艦長は全乗組員に使命である「日本本土空襲」を通知した。ホーネットの艦内は大いに沸き立った[8]。11日後の4月13日、4月8日に真珠湾を出撃した「エンタープライズ」以下の第16任務部隊と、ミッドウェー島北方で合流。第16任務部隊は、「ホーネット」以下の第18任務部隊の使命をこのとき知った[9]。第18、第16両任務部隊は日本に向けて回頭した。4月16日、「ホーネット」艦上のB-25は出撃態勢に整えられ、翌日には最後の燃料補給を行った[10]

ドーリットル中佐率いる爆撃隊は、4月18日夕刻に予定発艦位置から発進し東京を始めとする日本の主要都市を夜間攻撃する予定であった。当初の予定では、発艦位置はおおよそ日本の沿岸から400マイル (640 km) 以内であったが、4月18日未明に「エンタープライズ」のレーダーが複数の目標を発見。次いで朝になって犬吠埼東方で特設監視艇「第二十三日東丸」に発見される。軽巡洋艦ナッシュビル (USS Nashville, CL-43) 」が「第二十三日東丸」を撃沈するが、既に米艦隊発見は報告されており、機動部隊の存在と位置は日本海軍に察知される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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