ホージャ・ニヤーズ
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和加・尼牙孜・阿吉
東トルキスタン共和国
大統領
任期1933年 – 1934年4月
出生1889年
清 新疆省クムル(ハミ)地区
死去1941年
中華民国 新疆省迪化市
(現・ウルムチ市)
ホージャ・ニヤーズ・ハジ(ウイグル語: ???? ????? ????、中国語: 和加・尼牙孜・阿吉、1889年 - 1941年)は、東トルキスタンにおけるハミ郡王家や中国人統治者の金樹仁やそののちの回族軍閥の馬仲英に対しての、1931年のハミ暴動を始めとしたいくつかの反乱を先導した東トルキスタン独立運動のリーダーである。彼は東トルキスタン・イスラーム共和国(第1次東トルキスタン共和国)の最初にして唯一の大統領として知られる。東トルキスタン・イスラーム共和国は1933年初頭から1934年に中華民国に打倒されるまで続いた短命政権である。後に新疆省の副主席になった。 1889年、ホージャ・ニヤーズは新疆クムル地区の山間部の小さな村の七道溝に生まれた。その父のアミーン・ニヤーズ(伊敏尼牙孜)は、ハミ郡王の王府官員であった。26歳の時に初めて1907年の小作農や山岳民による、ハミ郡王マクスド・シャーに対する反乱(吐爾巴克暴動)に参加した。反乱に失敗すると、奇台やモリへ逃れ、その後ボルタラ一帯に行き、狩りと鹿茸の販売で生計をたてた。その後トルファン地区へ逃れて「アスタナ」(Astana、宗教学校)に入学し、将来有望なウイグル・トルファン革命家として知られるようになる。一年の勉強の後トクスン県、トルファンからメッカの巡礼に行き、「ハッジ」の称号を得る。 1912年、ホージャ・ニヤーズは新疆に帰還し、ハミ郡王家に対するティムル・ハルパ
前半生と反乱
1916年、ロシア国境のイリのウイグル人によって築かれた、セミレチエ州の町ジャルケント
(en:Zharkent)に来た。彼らは清軍が新疆イリ地方を取り戻した1881年以降ロシアに亡命した。ヤルカンドでは、在地ウイグル人の指導者で裕福な商人で1917年のロシア革命以降は小さなウイグル人自治グループを組織していたValiahun Yuldashevの保護下にいた。 ロシア内戦がセミレチエに飛び火すると、ホージャ・ニヤーズは1921年にウイグル人革命家で、コミンテルン傘下の革命的民族的組織のInqlawi Uyghur Ittipaqi(革命ウイグル同盟)の設立者の一人であるAbdulla Rozibakievに面会した。その後トクスン県のチャグルバン・ニヤーズ(長庫爾班・尼牙孜)の元に投じると、推挙を得てハミに帰還した。マクスド・シャーはニヤーズの槍の腕前を気に入って免罪し、王府侍衛隊の副隊長とした。 1923年、ホージャ・ニヤーズは新疆のまずはグルジャその次にウルムチに帰還し、そこで革命グループを作って新たな反乱の準備をした。1927年、父の葬儀のためにクムルへ戻り、マクスド・シャーが1930年に死亡すると、ホージャ・ニヤーズはハミ郡王家の新支配者の顧問に指名された。 しかし、新疆省主席金樹仁(1928?1933)は、マクスド・シャーの死後の権力の空白状態に乗じて、ハミ郡王家の廃止を命じ、マクスド・シャーの息子のナズィルの権力相続を妨げた。金樹仁は改土帰流を推し進め、ニヤーズを省の中心地の迪化(現在のウルムチ)に任職させて追いやり、また回貴族の土地を回収し、清代以来のハミ郡王の特権を廃止した。同時に金樹仁は甘粛省から廃止されたハン国へ回族を移民させることを計画した。役人の腐敗や改革措置の不適当さによって、ウイグル人・漢人間の対立は激しくなった。こうした出来事によって1931年2月にハミ暴動
反乱の領袖
省軍がしばしば敗北する状況下にあって、金樹仁もホージャ・ニヤーズに使節を送って帰順を勧めざるを得なかった。ホージャ・ニヤーズは省政府に、ハミ県と省軍の撤回とハミ王政の復活、そして自身をハミ地方の防衛に任命することを要求した[1]。金樹仁はこの条件を受け入れられなかったので、劉希曾を呼び戻してアクス行政長zh:朱瑞?を師長とすると、旅長の熊発有らを率いて再び侵攻した。しかし省軍内部の腐敗がひどく、地形に慣れなかったので、暴動勢力を殲滅することが出来なかった。ユルバースは監視されることに不満を持り、ハミ漢城から逃げ出して、ホージャ・ニヤーズに投降した。当時のハミには回、漢、満の三つの城(町)があった。回城は元々のハミ王府の所在地であり、漢城は老城ともいい省軍の主力の駐在地であり、満城は新城ともいい、清代満営の駐在地であった。ホージャ・ニヤーズは省軍が来る前にハミ回城を占領しようとしたが、回城の民衆は門を閉ざして受け入れなかったため、ハミ漢城に進攻することにした。ホージャ・ニヤーズはなかなか攻め落とせなかったため、ユルバースと司馬依を首都南京に派遣して中央政府に陳情し、外部の支援を求めざるを得なかった。
ホージャ・馬同盟
馬仲英の第一次入新入新作戦時の馬仲英
ユルバースらがハミを出発して甘粛粛州(酒泉)に至ると、現地の漢回軍閥の馬仲英に尋問された。この時の馬仲英は青海の馬歩芳らの勢力の包囲にあい、甘粛西部へ敗退していた。馬仲英はユルバースを宴を設けて歓待し、二人は合意した。ユルバースは南京行きを止めて懇願したので、馬仲英は新疆への進軍とホージャ・ニヤーズとの同盟、金樹仁政府の打倒を決定した。馬仲英の入新後、全省の情勢は極度の混乱の中に次第に陥った。[2]
1931年5月19日、馬仲英が“奉命出関”(命を奉じて関を出る)の名目で、国民革命軍第36師団の500余人を率いて粛州を離れハミに進軍した。ホージャ・ニヤーズとの連携のもと、馬軍の呉英gの部隊がハミ漢城を夜襲し、守備軍に撃退された後はハミ回城を攻めた。ほどなく、馬仲英は鎮西県(現在のバルクル・カザフ自治県)とハミ満城を攻略して、大量の武器と物資を鹵獲し、朱瑞?の孤軍は漢城に包囲された。金樹仁は急いで魯效祖を“東路剿匪総司令”に任命し、盛世才は督署参謀長として援軍を率いて駆けつけた。馬仲英は瞭?(七角井とハミの間)で省軍先の先鋒杜国治の旅団を大敗させた。省軍が挫折したので、金樹仁は田国禎を派遣して馬仲英と和議を行い、時間稼ぎをした。
馬仲英は省軍から獲得した大量の武器弾薬の全てを甘粛に運搬したので、ホージャ・ニヤーズの強烈な不満を引き起こしたが、この時はまだ二人の対立は公にはなっていなかった。ほどなく金と馬に協議に達した。ハミと鎮西の両地は馬仲英の防御地区となり、僅かに名義上新疆省政府に属するだけとなった。和議の完成後、金樹仁は8月に密かにイリ伊犁屯墾使のzh:張培元を魯效祖の代わりに任命し、盛世才は参謀長のままで、省軍は捲土重来した。この時馬仲英は負傷しており、自軍に倍する省軍に抵抗するのも難しかったため、分かれて甘粛に撤退し、再起を図った。馬仲英は馬世明や馬全禄などの少数の部隊を残し、主力を率いて甘粛の安西県や敦煌県や玉門県の一帯に帰還して駐留した。そのためホージャ・ニヤーズとユルバースは孤軍をもって張培元の大軍に対抗せねばならなかった。張培元は9月の着任後、乏馬塘(瞭?と七角井の間)で馬世明と馬全禄を撃退して、ハミ省軍の包囲を解いた。熊発有も順調にハミ回城を占領した。ホージャ・ニヤーズは部隊を率いてハミ北部の八大石山の中へ退却し、省軍への反撃の機会を伺い続けた。
山中への撤退ホージャ・ニヤーズの盟友ユルバース
省軍がハミを回復した後、ホージャ・ニヤーズとユルバースの対立が軍の指揮権をめぐって激化した。この時、ソビエト連邦共産党と外蒙古の人民革命党政権は江森多爾濟(モンゴル人)や阿寶(カザフ人)や哈森木(ウイグル人)らの代表を派遣してホージャ・ニヤーズと会談し、積極的に武器や資金を提供するとともに、漢人に対する「革命闘争」の継続を激励し、ホージャ・ニヤーズとユルバース間の調停をした。その後、両人は七道溝で会議を開いて、コーランを持って堅い団結を宣誓し、ホージャ・ニヤーズが首領に推挙され、聯馬抗金(馬仲英と連合して金樹仁に対抗する)政策の継続が確定された。ホージャ・ニヤーズはソ連の直接援助の元、勢いを回復した。しかし二人の対立は未だ解決せず,軍隊の指揮は各々が行い、ユルバースの名望がホージャ・ニヤーズより高いほどだった、ホージャ・ニヤーズはモンゴル人民共和国から支援を受け、1931年秋には600着の冬着とフェルトのテントと120丁のライフル(これは馬と引き換えであり、二頭の馬につきライフル一つの割合であった)が供給された。
一方省軍はというと、張培元がハミを回復した後も、残りの反乱軍を掃討できなかったので、和平交渉を使ってユルバースを取り込もうとした。