ホンダF1の年表
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ホンダF1の年表では、本田技研工業(ホンダ)によるフォーミュラ1(F1)参戦についての出来事を年表形式に掲載する。

各見出しの「年」は参戦した期間を示している。各節の内容には参戦前後の年の関連する出来事を含んでいる。

F1全体に関する事柄や、他のエンジンサプライヤーの重要と思われる(関連して語られることのある)動向についても含めている。

前史
ホンダ創業以前
1924年
カーチス号(レストア車)


11月23日、神奈川県の鶴見埋立地で、日本自動車競走大会第5回大会)が開催され、アート商会カーチス号を初参戦させ、優勝する[1]。この際、当時満18歳の本田宗一郎が榊原真一のコ・ドライバー(ライディングメカニック)を務め[1][2]、この優勝に至るまでの道程は本田にとっての自動車レースの原体験となる[3][4]。本田は以降も同大会でカーチス号のライディングメカニックを務める(1934年の第9回大会まで)。

1936年


6月、多摩川スピードウェイで全日本自動車競走大会が開催され、アート商会浜松支店を当時経営していた本田宗一郎は弟の弁二郎とともに自製の「ハママツ号」(浜松号[注釈 1])で参戦する[1]。トップを独走したが、ゴールする直前に周回遅れの車と絡むアクシデントにより車外に放り出され、両名とも重傷を負う[1][5][注釈 2]

1948年


9月24日、本田技研工業(以下「ホンダ」)が設立される。創業者の本田宗一郎が初代社長に就任。

「マン島TT参戦宣言」?マン島TT初参戦
1949年


8月、この年6月に
国際水泳連盟に復帰した日本水泳連盟はロサンゼルスで開催された全米水上選手権に選手団を派遣する。古橋廣之進ら日本選手たちが世界記録を連発し、第二次世界大戦の敗戦に沈んでいた日本国民に興奮と感動を与えた。古橋らの活躍に感動した本田宗一郎は自分は技術の世界でそれを成し遂げることを決意する[7][8][注釈 3]

1954年

「私の幼き日よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の勝者となることであった。…吾が本田技研は此の難事業を是非完遂し、日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。※[10]

—本田宗一郎によるマン島TT参戦宣言(1954年3月20日。起草は藤沢武夫)
※市田勝已による抜粋。


この年は多くの二輪メーカーにとって厳しい市場環境となり、ホンダも倒産を危ぶまれるほどの危機的な状況を迎える。

2月、ブラジルでサンパウロ市制400周年国際ロードレースが開催され、ホンダはライダーの大村美樹雄とエンジニアの馬場利次を派遣する[W 1][W 2]。当時の海外メーカーの事情をよく知らなかったホンダは意気揚々とチームを送り出したが、レースは参加した22台中13位という結果に終わり[11]、ホンダは上位を占めたヨーロッパ勢との技術水準の差を見せつけられる[12]

3月15日・20日[注釈 4]、本田宗一郎が「マン島TTレース参戦宣言」を行う[12][W 1][W 3][注釈 5]。この宣言は、四輪も含めて、その後のホンダのモータースポーツ活動の指針となる[10][注釈 6]

6月、本田宗一郎がマン島TTレースを初めて現地で観戦し、ヨーロッパの二輪メーカーの技術水準もレース内容も自身の想像をはるかに超えたものであったことを目の当たりにして衝撃を受けるとともに[17][11][16]、闘志を燃やして帰国する[18][12][16][W 7][注釈 7]。その後、レース用エンジンの開発にあたり、ヨーロッパのメーカーのエンジンに大きく後れを取っていた馬力を補うため多気筒化による解決が試みられ、当時のホンダエンジンの特長となっていく[11][注釈 8]

1956年


ホンダの社内に技術部第2研究課、通称「レーサー部門」が設立され、マン島TTレースに向けた車両開発が本格的に始まる[W 1]

1957年


6月1日、ホンダの白子工場内で従来の設計部を改組する形で「本田技術研究所」が発足する[20][21][W 8]

1958年


3月、中村良夫がホンダに入社し、ほどなくして四輪研究開発部隊の責任者となる[12][11]。日本自動車工業(日本内燃機)から当時は二輪専業メーカーだったホンダに移るにあたり、中村は(ホンダが二輪レースを制覇した後に[22])将来的にF1まで視野に入れて四輪自動車レースに参戦する気があるのか問いかけ、本田宗一郎の「出来るか出来んか知らんが俺はやりたい」という返答に手応えを得て、入社を決断する[12][11][23][注釈 9]

5月、白子工場近傍の荒川河川敷にホンダ専用の高速テストコース(荒川テストコース)が完成する[24][W 10][W 11][注釈 10]


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