ホンダ・1300
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ホンダ・1300
H1300型
99 S
クーペ7 S
概要
製造国 日本
販売期間1969年-1972年
ボディ
乗車定員5名
ボディタイプ4ドア セダン
2ドア クーペ
駆動方式FF
パワートレイン
エンジンH1300E型:1.3L DDAC(空冷) 直4 SOHC
最高出力4キャブ仕様:
115PS/7,500rpm(1969年6月?12月)
110PS/7,300rpm(1969年12月以降)
1キャブ仕様:
100PS/7200rpm(1969年5月?12月)
95PS/7,000rpm(1969年12月以降)
AT仕様:
80PS/6,500rpm
最大トルク4キャブ仕様:
12.05kgf・m/5,500rpm(1969年6月?12月)
11.5kgf・m/5,000rpm(1969年12月以降)
1キャブ仕様:
10.95kgf・m/4,500rpm(1969年5月?12月)
10.5kgf・m/4,000rpm(1969年12月以降)
AT仕様:
10.2kgf・m/4,000rpm
変速機4速MT・3速AT
前前:マクファーソンストラット式独立懸架+コイルばね
後:クロスビーム式独立懸架+板バネ
後前:マクファーソンストラット式独立懸架+コイルばね
後:クロスビーム式独立懸架+板バネ
車両寸法
ホイールベース2,250mm
全長セダン:
3,885mm(前期型)
3,995mm(後期型)
クーペ:4,140mm
全幅セダン:1,465mm
クーペ:1,495mm
全高セダン:1,345mm
クーペ:1,320mm
車両重量セダン(いずれも前期デラックス):
77 - 885kg
99 - 895kg
オートマチック - 910kg

クーペ(いずれも前期デラックス):
クーペ7 - 895kg
クーペ9 - 900kg
オートマチック - 920kg
その他
新車登録台数の累計10万6543台[1]
系譜
先代ホンダ・N600E(事実上)
後継ホンダ・145
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ホンダ・1300(ホンダ・せんさんびゃく)は、本田技研工業(ホンダ)が1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)まで生産、販売していた4ドアセダンおよび2ドアクーペの小型乗用車である。
概要

従前、二輪車軽自動車を主力としてきたホンダが初めて市販した小型乗用車であり、前輪駆動(FF)や空冷エンジン、四輪独立懸架など、独創的な技術が盛り込まれていた。ボディの種類は4ドアセダンと後に追加された2ドアクーペの2種で、型式はそれぞれH1300およびH1300Cである。700/800シリーズと異なり、バンピックアップといった商用車仕様は市販されなかった[注 1]

1300最大の特徴としては、水冷よりも空冷を推す本田宗一郎の技術的信念により、このクラスとしては当時でも珍しくなっていた空冷エンジンを採用した点が挙げられる(詳細は後述)。当時の新聞広告では「HONDA1300は横風に強い、安全設計です」と謳い、前輪駆動、適正な重量配分、超扁平タイヤ、余裕のあるパワー、独特な独立懸架、万全のボディで悪路や雪道での鋭い走破性、ハイウェイでの横風を黙殺する走行性をアピールしていた[2](これらの実態も後述)。

エンジンは、オールアルミ製の1,298 cc 直列4気筒SOHC 8バルブクロスフローで、シングルキャブレター仕様で100 PS/7,200 rpm、4連キャブレター仕様は115 PS/7,500 rpmを発揮[注 2]、この出力は当時の1.3 L級エンジンとしては極めて優秀であり[注 3]、1.8 - 2.0L 並みであった。

最初で最後の採用となったDDACと呼ばれる冷却方式は、通常の空冷エンジンのシリンダーブロックシリンダーヘッドの中に、水冷エンジンのウォータージャケットにあたる通路を設け、そこへ通風することから「一体式二重空冷」の名を持つ。空冷エンジンを搭載するF1マシンのRA302からのフィードバック[注 4]という事と、水冷エンジン並みの冷却効率がセールスポイントであった。開発には、騒音が大きい空冷の弱点の克服も目標とされた。しかし、高出力とDDAC方式、アルミ製オイルタンクを持つドライサンプ機構など構造が複雑で重く、高コストとなり、構造が簡単で軽量、低コストという空冷エンジン本来の長所とは逆の結果となった。

このためフロントまわりの重量が増加し、しかも発売当初のスプリングレートとダンパーはソフトなもので、77の標準タイヤは細く剛性の低いクロスプライのバイアスタイヤであったことから、アンダーステアタックインといった極端な挙動が現れやすかった。1300の極端なフロントヘビーを示す逸話として、経年劣化が進むとフロントストラットのアッパーマウントが重みに耐えきれずに破断し、ダンパーがボンネットを突き上げて破壊してしまうというものがある。このようなトラブルは1300以外にはシトロエンの一部車種に存在する程度で、通常他の車種ではあまり見られない欠点である。

後に追加されたクーペやマイナーチェンジ後のモデルでは最高出力が引き下げられ、サスペンションも固められたことで徐々に改善されたが、エンジンの廃熱を利用する標準ヒーターの熱量不足や油臭い点[注 5]、大きい最小回転半径[注 6]などの一部は解決できなかった。なお、H1300系はPCDが120.0 mmという特殊な規格のホイールハブ[注 7]を採用しており、これは145はもとより初代シビック・初代アコード・TNアクティ/アクティストリート[注 8]まで継承された。

総生産台数は3年強の間に約10万6,000台。このうち1053台が日本国外に輸出された。

1300はエンジンやオイルタンクにアルミ合金が多用されており、DDACという構造上その使用量もかなり多いものであった。アルミのスクラップ価格が高価であった当時の社会事情もあり、1300の事故車や廃車解体屋によって先を争うように処分されたともいわれており、現存する個体は廃車体も含めて非常に少なくなっている。

2019年から放送されているホンダの企業CM「GVP Power Products」編には、当車のマイナーチェンジ後のセダンが登場している。

99S リア

ケーヒン製のCVキャブレターを4連装する99Sのエンジン

クーペ7S リア

クーペ7DXのエンジン。手前に見えるのはカムシャフト直結の純正クーラーコンプレッサー

初代 H1300型 (1969年-1972年)

1968年(昭和43年)

10月21日 - 報道関係者に公開され、東京モーターショーにセダンとライトバンが参考出品された。


1969年(昭和44年)

4月15日 - ホンダ初の4ドアセダンとして5月下旬発売と記者発表されたが、実際は6月ごろからの発売となった[注 9]。モーターショー出品車と比較してリアエンドが伸ばされた。
シングルキャブモデルは「77」(Seventy Seven)、4連キャブモデルは「99」(Ninety Nine)と呼ばれ、77のみとなる「スタンダード」のほか、それぞれに「デラックス」、「カスタム」、「S」があった。三重県鈴鹿工場渡し現金価格は「77 スタンダード」が48.8万円、最も高価な「99 カスタム」が71.0万円であった。また、9.8万円高でクーラー(ホンダエアコン[注 10])、4.5万円高でATホンダマチック[注 11])も全車に装備可能と発表されたが、実際にはこの時点ではATは市販されなかった。なお、ライトバンは最後まで市販されなかった。

12月 - エンジンの中・低速域[注 12]トルクを重視するため、77シリーズは95 PSに、99シリーズは110 PSにそれぞれ最高出力が引き下げられ、同時にサスペンションセッティングも安定方向に固められた。


1970年(昭和45年)

2月 - セダンをベースにした2ドアクーペを追加。ポンティアック風の二分割フロントグリルに丸型4灯式ヘッドランプの精悍な顔つきを持つスポーティーカーで、95 PS仕様は「クーペ7」、110 PS仕様は「クーペ9」と呼ばれた。内装も専用設計で、インストゥルメントパネルのセンター部分がドライバー向きにオフセットされている「フライト・コックピット」(航空機操縦席)を特徴とした。

3月 - 77 / クーペ7に3速AT車が追加された。AT仕様の77 / クーペ7は、横長の扇形スピードメーターと2本スポークタイプのステアリングホイールを装備した。エンジンは80 PSにデチューンされていた。

11月 - セダンがマイナーチェンジされ、全車丸型2灯式ヘッドランプになる。フロント / リヤセクション及びインストルメンタルパネルを大幅に変更する大掛かりなマイナーチェンジとなる。同時に110 PS仕様の99シリーズは廃止され、95 PSの77シリーズのみとなり、1300の名が廃され、単に「ホンダ 77 」と呼ばれるようになる。


1971年(昭和46年)

6月 - クーペがマイナーチェンジを受け、セダン同様1300の名が廃され「ホンダ クーペ○○(○○はグレード名) 」と呼ばれるようになる。従来型の丸型4灯ヘッドランプ車は「ダイナミックシリーズ」に編成され、「SL」、「GL」、「GT」、「GTL」のグレード名が与えられ、セダンと同じフロントグリルを持つ「ゴールデンシリーズ」には「スタンダード」、「デラックス」、「カスタム」が設定された。110 PSの4連キャブレター仕様のグレードはダイナミックシリーズの「GTL」のみとなり、それ以外は95 PS仕様(AT車は80 PS)となった。ちなみに「GTL」は警視庁が道路上で交通監視するのを目的に交通取締用パトカーが配備され、助手席に開閉式屋根や昇降機付赤色灯を装備していた。


1972年(昭和47年)

9月 - 生産中止

11月 - 水冷直4 SOHC 1,433 ccエンジン(EB5型)を搭載した後継車の、「ホンダ・145/145クーペ」が登場。


空冷

本車と、F1車RA302のエンジンが空冷であることは、本田宗一郎の現役晩年のエピソードとしてしばしば語られる。
DDAC

DDAC(Duo Dyna Air Cooling system:デュオ ダイナ エア クーリング システム)の略。1968年(昭和43年)に本田技研工業が発表した空冷方式である。日本語では一体構造二重壁空冷方式、または一体式二重空冷エンジンと呼ばれる。

水冷エンジンでいうところの「ウォータージャケット」に類似した構造を空冷エンジンに導入したもので、シリンダーブロックの外壁を「一体」鋳造成型で二重構造にし、その間の空間を冷却風の通り道とした。そこに強制冷却ファンで風を送り込むと同時に、エンジンの外側にも風があたるようにして冷却をする構造である。その構造ゆえに重量も嵩み、オールアルミ製のエンジンにもかかわらず、エンジン単体の整備重量だけで180kgに達したこのエンジンは、空冷のメリットである「軽さ」が完全に打ち消されてしまうという結果となった。また、フロントヘビーな重量配分はハンドリングにも悪影響を及ぼした[3]

非常にユニークな発想ではあったが、このエンジンを搭載した1300は商業的に失敗を喫し、ホンダの4輪車用エンジンが空冷から水冷へ、高回転高出力型から実用域でのトルクを重視したものへと一斉に転換するきっかけとなった。
本田宗一郎と空冷

ホンダが1300の販売不振に悩まされていた1970年(昭和45年)頃、本田宗一郎と若手技術者たちはエンジンの冷却方法について激しく対立していた。

内燃機関では、熱は集中的に発生する。伝熱特性の良い液体に一旦熱を移し、ラジエータの広い面積から熱を捨てるという構造は合理的であり、若手を中心として技術者たちは「水冷のほうがエンジン各部の温度を制御しやすい」と主張した。しかし、本田は「エンジンを水で冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初からエンジンを空気で冷やしたほうが無駄がない」[注 13]として頑として譲らなかった。両者は激しくぶつかり合い、当時技術者であった久米是志(後の3代目社長)が辞表を残して出社拒否をしたほどであった。

技術者達は副社長の藤沢武夫に、あくまで空冷にこだわる本田の説得を依頼し、藤沢は電話で本田に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問いただした。設立以来、経営を担ってきた他でもない藤沢のこの言葉に本田は折れ、ようやく若手技術者たちの主張を認めた。そして、1300の生産中止と共に1971年(昭和46年)の初代ライフを皮切りに、初代シビック、145と水冷エンジン搭載車が次々とホンダから送り出されるようになり、本田が執念を燃やした空冷エンジン乗用車はホンダのラインナップから消滅した[注 14]


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