ホンジュラスの歴史
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コパンとしても知られるオックスウィティック王国のエンブレム

ホンジュラスの歴史(ホンジュラスのれきし、スペイン語: Historia de Honduras)は16世紀にスペイン人が到着するずっと以前に始まった。ホンジュラスの原住民は西部から中部にかけてレンカ族が、中北部海岸で

トルパン人(英語版)が、トルヒーリョ(英語版)近くでペチ人(英語版)、マヤ人、スモ人(英語版)が居住している。これらの民族は自治しつつもお互いに貿易関係を持っており、パナマメキシコの住民とまで貿易した[1]
大航海時代以前詳細は「コパン」を参照オレンジの木のピラミッドは、ホンジュラスで最も古いものの1つです。

史前時代のホンジュラスは考古学により多民族社会であることが証明されている。この時代の文明はホンジュラス西部、グアテマラとの国境地帯にあるコパン市周辺で見つかっているマヤ文明が重要であり、コパンの文明は150年頃に繁栄しはじめ、古典期の後期にあたる700年から850年にその頂点に達した。この文明は多くの銘刻と石碑を残している。コパンの王国は5世紀から9世紀まで続き、その前身は少なくとも2世紀までたどることができる。コパン・ルイナス博物館(Copan Ruinas)にあるロサリラ神殿(Rosalila)、2009年撮影。

マヤ文明は9世紀より大幅な人口減が見られたが、少なくとも1200年まではコパンとのその周辺に人間が居住していた証拠が見つかっている[2]。コパンはスペインがホンジュラスを発見するまでに密林と化しており、生き残ったチョルティ族も西方にいた同じチョルティ語を話す他部族と隔絶していた。一方、マヤ人に属しないレンカ人はホンジュラス西部を支配した[3]
スペインによる征服詳細は「スペインによるホンジュラス征服(英語版)」を参照ヒル・ゴンサレス・ダビラ(英語版)

ホンジュラスがはじめてヨーロッパ人に発見されたのは、クリストファー・コロンブスが第四次航海(英語版)中の1502年7月30日にバイア諸島に到着したときだった。同年8月14日、コロンブスは現トルヒーリョ(英語版)近くで米州大陸本土に上陸した。コロンブスは海岸近くの水深が深かったためそこをホンジュラス(「深さ」)に名づけた。

1524年1月、エルナン・コルテスはクリストバル・デ・オリド(英語版)にホンジュラスで植民地を設立するよう命じた。オリドは船数隻、兵士と入植者で合計400人以上を率いてキューバに向かい、コルテスが準備した補給を回収した。キューバ総督ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルはオリドに設立した植民地を自分のものにするよう説得した。オリドは続いてホンジュラスの北部海岸に向かい、プエルト・カルバリョス(英語版)の東のトリウンフォ・デ・ラ・クルス(英語版)で上陸、そこに入植して総督を称した。コルテスはオリドの反乱を知ると、フランシスコ・デ・ラス・カサス(英語版)を船数隻とともにホンジュラスに派遣して、オリドを追放してホンジュラスをコルテスの領地にするよう命じた。しかし、ラス・カサスはベリーズとホンジュラス沖で度重なる嵐に遭って艦隊のほとんどを失った。ラス・カサス自身の旗艦はのろのろ進みながらようやくオリドの本拠地であるトリウンフォの沖合に着いた。

ラス・カサスがトリウンフォに到着した時点ではオリドの軍勢の大半がヒル・ゴンサレス・ダビラ(英語版)の軍勢に対処するために内陸部にいた。それでもオリドはカラベル船2隻で攻撃を開始したが、ラス・カサスは砲火で反撃、さらに分遣隊を派遣してオリドの船に乗船、拿捕しようとした。この状況に至ってはオリドが和議を提案、ラス・カサスが受け入れて自軍を上陸させなかった。しかし、その夜に激しい嵐がラス・カサス艦隊を襲い、ラス・カサスの軍勢の3分の1が失われた。その後、ラス・カサス艦隊は風雨にさらされた上に食料もない2日間を過ごした後に捕虜になった。オリドに忠誠を誓うよう強制された後、ほとんどが釈放されたが、ラス・カサスは釈放されず、後にゴンサレスもオリドの内陸部隊に捕らえられた。

その後の出来事については、スペインの文献に2通りの説がある。1つはアントニオ・デ・エレーラ・イ・トルデシリャスが17世紀に書いたものであり、オリドの兵士が反乱して彼を殺害したというものだった。もう1つはベルナル・ディアス・デル・カスティリョによる『メキシコ征服記』(16世紀)であり、ラス・カサスがオリドを捕らえてナコ(スペイン語版)で殺害したというものである。一方、コルテスは陸上を行軍してメキシコからホンジュラスに向かい、1525年に到着した。コルテスは現プエルト・コルテスとトルヒーリョ近くにヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ナビダッド(Nuestra Senora de la Navidad)という都市を設立するよう命じ、ラス・カサスをその総督に任命した。しかし、ラス・カサスもコルテスも1525年末までにメキシコに戻り、ラス・カサスはそこでオリドの死に関係したとして逮捕され、スペインに送還された。彼は1527年にメキシコに戻ったが、翌1528年にコルテスとともにスペインに帰国した。

1526年4月25日、メキシコに戻る前、コルテスはエルナンド・アリアス・デ・サアベドラ(英語版)をホンジュラス総督に任命、先住民に手厚く接するよう命じた。10月26日、スペイン王フェリペ1世はディエゴ・ロペス・デ・サルセド・イ・ロドリゲス(Diego Lopez de Salcedo y Rodriguez)をホンジュラス総督に任命した。その後の10年間、植民地人が総督に反乱したり、先住民がスペイン人に反乱するなどして植民地が混乱した。サルセドは私利のためにカスティーリャ・デ・オロ(英語版)総督ペドロ・アリアス・ダビラ(英語版)と戦った(ダビラもホンジュラスを自領にしようとした)。1528年、サルセドはペドロ・アリアスを捕らえてホンジュラスの一部を割譲させたが、フェリペ1世に却下された。サルセドが1530年に死去した後はホンジュラスが再び混乱に陥り、1536年にペドロ・デ・アルバラードが到着してようやく収まった。

1537年、フランシスコ・デ・モンテーホがホンジュラス総督に任命された。その前にアルバラードが領土の分割を取り決めたが、モンテーホはホンジュラスに到着するとすぐにそれを取り消した。モンテーホの配下アロンソ・デ・カセレス(英語版)はカシケレンピラが1537年から1538年にかけて起こした先住民反乱を鎮圧した。1539年、アルバラードとモンテーホが総督位を争い、当局の目にとまった結果、モンテーホはチアパスに向かい、アルバラードはホンジュラス総督になった[4]

アルバラードがホンジュラスを征服する途上、ホンジュラス北海岸の多くの先住民が捕らえられてスペインのカリブ海にあるプランテーションで強制労働を強いられた。しかし、スペインによるホンジュラス征服は1536年にアルバラードがシクンバ(スペイン語版)率いるティカマヤ(Ticamaya)での先住民反乱を鎮圧した後にようやく行われた。アルバラードは先住民の町を分割して、スペインのコンキスタドールレパルティミエントとして分け与えた。1537年から1538年にかけてはグラシアス・ア・ディオスコマヤグアオランチョ近くで先住民反乱がおこり、うちグラシアス・ア・ディオス近くでおきた反乱はレンピラが率いたものであり、今日では彼を記念してホンジュラスの通貨単位の名前が「レンピラ」となっている。
植民地時代サン・フェルナンド・デ・オモア(英語版)の要塞。グラシアス(英語版)のサン・クリストバル要塞(San Cristobal)。

レンピラの反乱が敗れ、スペイン人の間の争乱も少なくなったことは、ホンジュラスにおける定住者の増加、並びに経済活動の活発化につながった。1540年代末には王立グアテマラ・アウディエンシア(英語版)の首都が1544年にグラシアス(英語版)に定められたことから、発展と繁栄に向かうとされたが、このことはグアテマラやエルサルバドルにおける不満につながり、1549年には首都がアンティグア・グアテマラに移転された[5]。ホンジュラスは1821年までグアテマラ総督領の1県に甘んじることになった。
ホンジュラスの鉱業

鉱業の最初の中心地はグアテマラとの国境近く、グラシアスの周辺だった。1538年には大量の金を産出したが、1540年代初期には中心地が東のグアヤペ川(英語版)流域に移り、金のほかには銀も産出するようになった。これによりグラシアスは急速に衰退、代わりにコマヤグアがホンジュラス植民地の中心地になった。鉱業が労働者を大量に要したため、先住民のさらなる反乱につながり、先住民人口が急激に減少するようになった。結果的にはアフリカ奴隷(英語版)がホンジュラスに導入され、1545年には2千人ほどに膨れ上がった。ほかにはサン・ペドロ・スーラやトルヒーリョ(英語版)港の近くにも金鉱が発見された[5]

鉱業は1560年に衰退をはじめ、ホンジュラスの重要性もそれに従い低減した。1569年初に新しい銀鉱が発見されたため経済が短期間回復、テグシガルパが建設されてコマヤグアの重要性を脅かすほどになった。しかし、銀鉱業の発展が1584年に頂点に達した後は経済衰退が再び訪れた。ホンジュラスにおける鉱業は資金も労働力も不足した上に地形の問題もあったため発展が阻害され、銀の産出に必要な水銀も希少だった[5]
北部海岸の征服植民地時代、ヨーロッパからの海賊はたびたびホンジュラスの町に放火した。


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