「ホワッド・アイ・セイ」
レイ・チャールズ の シングル
初出アルバム『ホワッド・アイ・セイ
ザ・ナイト・タイム・イズ・ザ・ライト・タイム
(1959)ホワッド・アイ・セイ
(1959)アイム・ムーヴィング・オン
(1959)
ミュージックビデオ
「What'd I Say」 - YouTube
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「ホワッド・アイ・セイ」(What'd I Say)は、1959年にレイ・チャールズによってリリースされた、アメリカのリズム・アンド・ブルースの楽曲である。シングルは2つのパートからなっており、ソウルミュージックの初期の曲のひとつである。この楽曲は、1958年末のある晩に、チャールズとオーケストラとバックアップシンガーがすべての曲目を演奏し終わった後に、まだ時間があったので、即興で演奏された。多くの観客からの反応が熱烈だったので、チャールズはこの曲を収録する予定をプロデューサーに伝えた。
R&Bのヒットの連続の後で、この曲はチャールズを主流のポップ・ミュージックに向かわせた曲であり、1954年に「アイ・ガット・ア・ウーマン」(I Got a Woman)を収録して以降、チャールズが模索し続けた要素を統合したこの曲はR&Bのサブジャンルであるソウルミュージックの火付け役となった。この曲は、ゴスペルとルンバの影響に加え、曲の中の性的なほのめかしによって、広く人気があるだけでなく、白人と黒人の両方の観客からの物議を醸した。この曲によってレイ・チャールズは初めてゴールドレコードを獲得し、R&Bやロックンロールの歴史の中で最も影響力のある曲である。 レイ・チャールズは1958年に27歳であり、10年間主にリズム・アンド・ブルースの楽曲をダウンビート、スイングタイムレコードで収録していて、そのスタイルはナット・キング・コールやチャールズ・ブラウンと似ていた。1954年にレイ・チャールズは、プロデューサーのアーメット・アーティガンとジェリー・ウェックスラーから、レパートリーを増やすように勧められ、アトランティック・レコードと契約した。ウェックスラーは後に、「我々はレコードを作ることは何もわからなかったが、楽しかった。」と言って、アトランティック・レコードの成功はアーティストの経験によるものではなく、音楽に対する熱意によるものであると回想した[1]。アーティガンとウェックスラーは、チャールズに対して放任的な態度を取ることが、彼に自信を与える最善の方法だと知っていた。ウェックスラーは後に「レイに対して私ができる最高のことは彼を一人にしてやることだと気づいた」と語っている[2]。 1954年から1960年代にかけて、チャールズは7人組のオーケストラとともに1年に300日のツアー公演を行った。彼は別のアトランティック・レコード所属のトリオであるクッキーズを雇い、チャールズのツアー公演のバックアップをバックアップするようになると、グループ名をレイレッツに改名した[1]。1954年に、チャールズはゴスペルの音や楽器を、以前より現実的な問題を歌った歌詞と織り交ぜていった。彼の最初の試みは、「アイ・ガット・ア・ウーマン」に現れ、この曲はゴスペルのスタンダード曲である「マイ・ジーザス・イズ・オール・ザ・ワールド・トゥー・ミー」(My Jesus Is All the World to Me)か、アップテンポの「アイ・ガット・ア・セイバー(ウェイ・アクロス・ジョーダン)」(I Got a Savior (Way Across Jordan))のどちらかのメロディーに基づいて作曲されている。レイ・チャールズの作品が白人の観客からも注目されるようになったのはこのときが初めてであるが、黒人の観客の中にはこのゴスペルから派生した作品に不快感を示す者もいた。チャールズは後に、ゴスペルやR&Bを音楽に加えることは意識的な決定ではないと述べた[3]。 1958年の12月に、R&Bチャートで、「ナイト・タイム・イズ・ザ・ライト・タイム」という、性愛を賞賛する歌がヒットした。この曲はチャールズと性的関係を持っていた、レイレッツのメンバーの一人であるマージー・ヘンドリックスと共に歌われた。1956年以降、チャールズはツアー公演にウーリッツァーのエレクトリックピアノも使用するようになった。なぜなら、彼はすべての現場で彼に与えられるピアノのチューニングと質を信用していなかったからである。彼がそのエレクトリックピアノを弾くと、ほかのミュージシャンたちに嘲笑われた[4]。 チャールズの自伝によれば、「ホワッド・アイ・セイ」は、1958年の12月に行われたコンサートの終わりに、余った時間を埋めるために、彼が即興で演奏することによって偶然生まれた作品である[5][6]。彼は作品の収録の前に観客の前で曲を試すということは決してしないと主張しているが、「ホワッド・アイ・セイ」は例外であった。チャールズ自身もどこでそのコンサートがあったか覚えていないが、マイク・エバンスが、著書の『Ray Charles: The Birth of Soul』の中で、ショーはペンシルベニア州のブラウンズビルで行われたと明かしている[7]。ショーは「ミールダンス」という形式で披露され、通常は30分の休憩を含む4時間の公演であり、終了は夜中の1時か2時であった。その日、チャールズとオーケストラはすべての曲目を終えて疲れきったが、終了まで12分残っていた。彼はレイレッツのメンバーたちに、「聞いてくれ、俺が時間つぶしに演奏するから、お前たちは俺をフォローしてくれ。」と言った[8]。 エレクトリックピアノに始まり、チャールズは彼の好きなように演奏していった。一連のリフの後で、4人のコーラスに合わせたピアノに変わり、ドラムによる、ラテン特有のコンガやトゥンバオのリズムによってバックアップされた。
背景
作曲と収録