ホワッド・アイ・セイ
[Wikipedia|▼Menu]

「ホワッド・アイ・セイ」
レイ・チャールズシングル
初出アルバム『ホワッド・アイ・セイ』
B面ホワッド・アイ・セイ パート2
リリース1959年7月
規格7インチ・シングル
録音1959年2月18日
ジャンルリズム・アンド・ブルースソウルミュージック
時間5分04秒
レーベルアトランティック・レコード
作詞・作曲レイ・チャールズ
プロデュースジェリー・ウェクスラー
レイ・チャールズ シングル 年表

ザ・ナイト・タイム・イズ・ザ・ライト・タイム
(1959)ホワッド・アイ・セイ
(1959)アイム・ムーヴィング・オン
(1959)

ミュージックビデオ
「What'd I Say」 - YouTube


テンプレートを表示

「ホワッド・アイ・セイ」(What'd I Say)は、1959年にレイ・チャールズによってリリースされた、アメリカのリズム・アンド・ブルースの楽曲である。シングルは2つのパートからなっており、ソウルミュージックの初期の曲のひとつである。この楽曲は、1958年末のある晩に、チャールズとオーケストラとバックアップシンガーがすべての曲目を演奏し終わった後に、まだ時間があったので、即興で演奏された。多くの観客からの反応が熱烈だったので、チャールズはこの曲を収録する予定をプロデューサーに伝えた。

R&Bのヒットの連続の後で、この曲はチャールズを主流のポップ・ミュージックに向かわせた曲であり、1954年に「アイ・ガット・ア・ウーマン」(I Got a Woman)を収録して以降、チャールズが模索し続けた要素を統合したこの曲はR&Bのサブジャンルであるソウルミュージックの火付け役となった。この曲は、ゴスペルとルンバの影響に加え、曲の中の性的なほのめかしによって、広く人気があるだけでなく、白人と黒人の両方の観客からの物議を醸した。この曲によってレイ・チャールズは初めてゴールドレコードを獲得し、R&Bやロックンロールの歴史の中で最も影響力のある曲である。
背景

レイ・チャールズは1958年に27歳であり、10年間主にリズム・アンド・ブルースの楽曲をダウンビート、スイングタイムレコードで収録していて、そのスタイルはナット・キング・コールチャールズ・ブラウンと似ていた。1954年にレイ・チャールズは、プロデューサーのアーメット・アーティガンとジェリー・ウェックスラーから、レパートリーを増やすように勧められ、アトランティック・レコードと契約した。ウェックスラーは後に、「我々はレコードを作ることは何もわからなかったが、楽しかった。」と言って、アトランティック・レコードの成功はアーティストの経験によるものではなく、音楽に対する熱意によるものであると回想した[1]。アーティガンとウェックスラーは、チャールズに対して放任的な態度を取ることが、彼に自信を与える最善の方法だと知っていた。ウェックスラーは後に「レイに対して私ができる最高のことは彼を一人にしてやることだと気づいた」と語っている[2]

1954年から1960年代にかけて、チャールズは7人組のオーケストラとともに1年に300日のツアー公演を行った。彼は別のアトランティック・レコード所属のトリオであるクッキーズを雇い、チャールズのツアー公演のバックアップをバックアップするようになると、グループ名をレイレッツに改名した[1]。1954年に、チャールズはゴスペルの音や楽器を、以前より現実的な問題を歌った歌詞と織り交ぜていった。彼の最初の試みは、「アイ・ガット・ア・ウーマン」に現れ、この曲はゴスペルのスタンダード曲である「マイ・ジーザス・イズ・オール・ザ・ワールド・トゥー・ミー」(My Jesus Is All the World to Me)か、アップテンポの「アイ・ガット・ア・セイバー(ウェイ・アクロス・ジョーダン)」(I Got a Savior (Way Across Jordan))のどちらかのメロディーに基づいて作曲されている。レイ・チャールズの作品が白人の観客からも注目されるようになったのはこのときが初めてであるが、黒人の観客の中にはこのゴスペルから派生した作品に不快感を示す者もいた。チャールズは後に、ゴスペルやR&Bを音楽に加えることは意識的な決定ではないと述べた[3]

1958年の12月に、R&Bチャートで、「ナイト・タイム・イズ・ザ・ライト・タイム」という、性愛を賞賛する歌がヒットした。この曲はチャールズと性的関係を持っていた、レイレッツのメンバーの一人であるマージー・ヘンドリックスと共に歌われた。1956年以降、チャールズはツアー公演にウーリッツァーのエレクトリックピアノも使用するようになった。なぜなら、彼はすべての現場で彼に与えられるピアノのチューニングと質を信用していなかったからである。彼がそのエレクトリックピアノを弾くと、ほかのミュージシャンたちに嘲笑われた[4]
作曲と収録

チャールズの自伝によれば、「ホワッド・アイ・セイ」は、1958年の12月に行われたコンサートの終わりに、余った時間を埋めるために、彼が即興で演奏することによって偶然生まれた作品である[5][6]。彼は作品の収録の前に観客の前で曲を試すということは決してしないと主張しているが、「ホワッド・アイ・セイ」は例外であった。チャールズ自身もどこでそのコンサートがあったか覚えていないが、マイク・エバンスが、著書の『Ray Charles: The Birth of Soul』の中で、ショーはペンシルベニア州のブラウンズビルで行われたと明かしている[7]。ショーは「ミールダンス」という形式で披露され、通常は30分の休憩を含む4時間の公演であり、終了は夜中の1時か2時であった。その日、チャールズとオーケストラはすべての曲目を終えて疲れきったが、終了まで12分残っていた。彼はレイレッツのメンバーたちに、「聞いてくれ、俺が時間つぶしに演奏するから、お前たちは俺をフォローしてくれ。」と言った[8]

エレクトリックピアノに始まり、チャールズは彼の好きなように演奏していった。一連のリフの後で、4人のコーラスに合わせたピアノに変わり、ドラムによる、ラテン特有のコンガトゥンバオのリズムによってバックアップされた。その後、Hey Mama don't you treat me wrong / Come and love your daddy all night long / All right now / Hey hey / all rightとチャールズが脈絡のない詩を即興で歌い、曲調が変わった。チャールズは、12バーブルースの構造の中に、ゴスペルの要素を組み込んだ[9][10]。最初の節にあるSee the gal with the red dress on / She can do the Birdland all night longは、ブギウギの形式に影響されている。アーメット・アーティガンによれば、ブギウギは、かつてフロアのダンサーを集めて、自身の歌詞を通じて何をすれば良いのかを示して見せていたクラレンス・パイントップ・スミスによって作られた[4]。しかし、曲の中盤になると、チャールズはレイレッツに、彼がしていることを繰り返すように命じ、チャールズとレイレッツと、オーケストラのホーンセクションとが、夢中で叫び合いながら、うめき声や管楽器の大音響の中で互いに呼び合い、曲はコールアンドレスポンスへと転換していった[9]

観客は直ちに反応した。観客の踊りによって、チャールズは会場が揺れ、弾んでいると感じた。多くの観客がショーの終わりにチャールズに駆け寄って、どこでこの曲のレコードを購入できるか尋ねた。チャールズと彼のオーケストラはこの曲を幾日か連続で演奏し、観客から同じ反応を受けた。彼はジェリー・ウェックスラーを呼び、新しく収録する曲ができたと言った。彼は後に、「私は事前に収録を知らせることが好きではないが、この曲はそうであって当然だと思った」と書いている[8]

アトランティック・レコードのスタジオは丁度8トラックレコーダーを購入したところであり、レコードプロデューサーのトム・ダウドはその使い方になれようとしていた。1959年の2月にチャールズとオーケストラは、アトランティック・レコードの小さなスタジオにて、ついに「ホワッド・アイ・セイ」の収録を行った。ダウドはレコード時にはそう特別には思われなかったと回想している。この曲は行われたセッションの内の2曲目であり、チャールズとプロデューサー、バンドはセッションの最初の曲である、「テル・ザ・トゥルース」(Tell the Truth)に感動していた。「私たちはこの曲を、他のすべての曲を作り出すように作った。レイ、女の子たち、バンドが小さなスタジオの中で生きていて、多重録音もしていない。3、4テイクだけ撮って、おしまい。次だ!」とダウドは語っている[11]。回想の中で、アーメット・アーティガンの兄であるネスヒは、この曲の非凡な音は、限られた大きさのスタジオと発展した録音技術によるとした。その音質はよく、演奏が中断されてコールアンドレスポンスのパートに入っているときにチャールズが音楽に合わせてテンポ良く足をたたく音を聞くことができる[4]。チャールズとオーケストラは、ツアーの間に曲を完成させていたため、収録は数回のテイクで終わった[12]

しかし、ダウドには2つの問題があった。当時はラジオで流される一般的な曲の長さは2分半程度であったが、「ホワッド・アイ・セイ」は7分半以上も続く曲であった。さらに、歌詞は卑猥なものではなかったが、曲中での、チャールズとレイレッツのコールアンドレスポンスの音はダウドとプロデューサーの懸念事項であった。彼らが以前収録した、クライド・マクファターによる「マネー・ハニー」(Money Honey)という曲が、ジョージア州で発売禁止となったが、アーメット・アーティガンとウェックスラーは、発売が禁止されており、逮捕の危険があるにもかかわらず、マクファターの曲をリリースしたことがあったのだ[13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef