ホワイト・ロッジ
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ホワイト・ロッジ
現地名 White Lodge
現在のホワイト・ロッジ
所在地リッチモンド・アポン・テムズ区リッチモンド公園
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度26分43秒 西経0度15分53秒 / 北緯51.4452度 西経0.2648度 / 51.4452; -0.2648座標: 北緯51度26分43秒 西経0度15分53秒 / 北緯51.4452度 西経0.2648度 / 51.4452; -0.2648
建設1727?30年
建築家ロジャー・モリス
建築様式新パッラーディオ様式

指定建築物 ? 等級 I
登録名: White Lodge
登録日1981年3月10日
登録コード1250045[1]

ホワイト・ロッジ(White Lodge)は、イギリスリッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区リッチモンド公園にある第1級イギリス指定建造物[1]で、ジョージアン様式の邸宅である。元々はイギリス王室の所有であったが、現在はロイヤル・バレエ学校のロウアー・スクールが置かれており、プロのバレエダンサーを目指す11歳から16歳の生徒が学ぶ全寮制のボーディングスクールとなっている。
初期の歴史2009年に撮影された空撮

ホワイト・ロッジは、建築家ロジャー・モリスによりジョージ2世の狩猟用別邸として建てられたもので、1727年の即位直後に建設が始められた。1730年に完成し、当初はストーン・ロッジと呼ばれていたが、近くにあったオールド・ロッジ(1841年取り壊し)[2]と区別するために、間もなくニュー・ロッジに改称された。オールド・ロッジ自体は、ジョージ2世により[3]、初代イギリス首相ロバート・ウォルポールのために建てられたもので、ウォルポール自身も狩猟のために頻繁に訪れており、「町よりも、そこ(オールド・ロッジ)の方がより多くの仕事をこなせる」と語っていた[4][5]

ジョージ2世妃キャロライン・オブ・アーンズバックもニュー・ロッジを頻繁に訪れていたが、1737年にキャロラインが亡くなると、ニュー・ロッジは友人でもあったウォルポールに譲られた。ウォルポールの没後、1751年にキャロラインの娘アメリアの手に戻された。アメリアはリッチモンド公園の保護官となったが、著名な友人や許可を得た者以外には公園全体を非公開としたため、大衆の怒りを買うことになった[6]。1758年、地元の醸造業者が公園の門番に対して起こした訴訟は、最終的にアメリア側の敗訴に終わり、公園は再び一般公開されるようになった。アメリアは、ロッジにスティーブン・ライトの設計によるウィングを増築させた[7][8]

1760年にアメリアが保護官を辞任すると、首相のジョン・ステュアートがその後任となった[9] 。British Magazine誌1761年1月号では、ステュアートが保護官、シドニー・メドウズが副保護官とされている[10]。ニュー・ロッジはステュアートの公的住居であったが、ステュアートはオールド・ロッジの使用権も持っており[11]、オールド・ロッジにはステュアートの親族にあたるメドウズ家が住んでいた。ロイヤル・コレクションには、1780年にジョージ・バレット・シニアが制作した「The Lodge in Richmond Park, the residence of Philip Meadows Esq.」というエッチングが残されている。シドニー・メドウズやオールド・ロッジに住んでいたメドウズはフィリップ・メドウズの子弟であり、シドニーとその弟フィリップは、フィリップの妻とジョン・ステュアートの妻メアリーが従姉妹同士だった縁でステュアートの親族として振舞っていた[12][13]

ニュー・ロッジは、ステュアートとメドウズが管理していた時期にホワイト・ロッジと呼ばれるようになったことが、メアリー・コーク夫人の日記から分かっている。1768年7月24日付の日記には、ジョージ3世シャーロット王妃を一目見ようとリッチモンド公園に行ったとして、「彼らはいつも日曜日にホワイト・ロッジにいる」と書かれている[7]

ホワイト・ロッジは18世紀末までに一時荒廃したものの修復され、1805年にはジョージ3世が首相ヘンリー・アディントンに下賜した。ジョージ3世は農業と園芸に熱意を傾けたことから農夫ジョージ(Farmer George)と呼ばれたが、自身をリッチモンド公園の保護官に任じ、アディントンを副保護官とした。トラファルガーの海戦の6週間前の1805年9月10日、ホレーショ・ネルソンがホワイト・ロッジに滞在していたアディントンを訪ね、海戦の作戦を説明した、と言われている[7]
19世紀ウェールズ公アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の肖像画。ヴィンターハルター画、1846年

1844年にアディントンが亡くなると、ヴィクトリア女王はホワイト・ロッジをジョージ3世の娘で自身の叔母にあたるグロスター=エディンバラ公爵夫人メアリーに譲った。1857年にメアリーが亡くなると、王配アルバートは、息子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の教育にふさわしい場所としてホワイト・ロッジを選定した。アルバート・エドワード自身は一生懸命勉強するためにも大勢の同輩から刺激を受けることを望んでいたが、アルバートは息子をホワイト・ロッジに隔離し、付けた同輩も5人だけであった。当然ではあるが、アルバート・エドワードにとってホワイト・ロッジで過ごした日々は退屈なものとなった。

1861年にアルバート・エドワードが陸軍近衛歩兵連隊に入隊してアイルランド島に送られると、ヴィクトリア女王は母ケント公爵夫人ヴィクトリアを失った悲しみを癒すために夫アルバートともにホワイト・ロッジに滞在した。しかし、同年12月14日に夫アルバートも腸チフスのために失ったことで酷く落ち込んだヴィクトリア女王は、その後の人生を服喪のうちに過ごすこととなった。
テック家とエドワード8世の誕生テック公妃とその家族4人の王:エドワード7世(右端)、息子ジョージ(後のジョージ5世、左端)、孫デイヴィッド(後のエドワード8世、中央後ろ)とアルバート(後のジョージ6世(中央前)。1908年頃。

次にホワイト・ロッジに住んだのはテック公フランツとその妻メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジで、1869年に服喪中のヴィクトリア女王からその許可を受けている。メアリー・アデレードはジョージ3世の孫娘であり、ヴィクトリア女王の従姉妹にあたるが、派手好きでひどい浪費家として有名であった。女王に対してより多くの年金を与えるよう要求したが断られたため借金は増える一方となり、1880年代に債権者から逃れるために海外逃亡した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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