ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート
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ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート
(White Pass and Yukon Route)
報告記号WPY
路線範囲アラスカ州・北部ブリティッシュコロンビア州ユーコン準州
運行1898年 - 1982年、1988年–現在
軌間3 フィート(914 mm
本社アラスカ州スカグウェイ
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クロンダイク・サミット駅、1900年

ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート(英語: White Pass and Yukon Route、略称WP&YまたはWP&YR、報告記号はWPY)は、アメリカ合衆国アラスカ州スカグウェイの港とカナダユーコン準州の州都ホワイトホースを結んでいる、カナダおよびアメリカ合衆国の二級鉄道である。

孤立した鉄道であり、他の鉄道路線と直接の接続はない。設備・貨物・旅客はスカグウェイの港を経由して船でやってくるか、道路を経由して途中の駅から利用することになる。また鉄道のうちアラスカ州部分はパシフィック・アンド・アークティック・レールウェイ・アンド・ナビゲーション社 (Pacific and Arctic Railway and Navigation Company)、ブリティッシュコロンビア州内の部分はブリティッシュ・コロンビア・ユーコン鉄道 (British Columbia Yukon Railway Company)、ユーコン準州内の区間は当初はブリティッシュ・ユーコン・マイニング・トレーディング・アンド・トランスポーテーション社 (British Yukon Mining, Trading and Transportation Company) という会社名であったブリティッシュ・ユーコン鉄道 (British Yukon Railway Company) が運営しており、営業上ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートという名称を使用している。

この鉄道はカナダでゴルフ場などを経営しているクラブリンク・エンタープライズ・リミテッド (Clublink Enterprises Limited) の完全子会社である。この会社はトロント証券取引所に上場している。
目次

1 建設

2 第二次世界大戦までの運行

3 第二次世界大戦の時期の運行

4 1946年から1982年

5 再開、1988年から現在

6 事故

7 車両

8 脚注

8.1 参考文献


9 外部リンク

建設

この鉄道は、1897年のクロンダイク・ゴールドラッシュによって生まれた。ドーソン・シティの金鉱へ向かう探鉱者がよく使う道は、もっとも近い港であったスカグウェイかそのそばのダイイー (Dyea) から、カナダとの国境の山をチルクート峠 (Chilkoot Pass) またはホワイト峠 (White Pass) を越えていく危険なものであった。カナダの当局は、探鉱者に対して膨大な量の装備品を準備して入境することを求めたので、入境許可が得られるまで何度も峠を上り下りして装備品を運び上げる必要があった。ホワイト峠で使われていた駄獣や、チルクート峠で使われていた荷物運び人夫よりも、効率のよい交通手段が求められていた。これにより多くの鉄道計画が持ち上がった。1897年にはカナダ政府は32件のユーコン地区での鉄道計画を受け取ったが、ほとんどは実現しなかった。

1897年、スカグウェイとそこから325 マイル(523 km)離れたユーコン準州のフォートセルカーク (Fort Selkirk) を結ぶ鉄道路線を建設する3つの会社が設立された。おおむねイギリスの投資家からの出資により、この鉄道はすぐに着工した。3 フィート(914 mm)の狭軌鉄道が選択された。山の岩場を削り、発破を行って道床を確保しなければならない場所では、狭軌鉄道によって道床幅を狭くすることで大きな費用削減ができるからである。しかしそれでも、ホワイト峠の頂上まで到達するために450 トン爆発物が使用された。また狭軌を採用することにより、より急曲線を採用することができ、これにより発破で地形を突っ切って行くのではなく地形に沿って走らせるようにすることができて、より工事を容易にすることができた。

建設工事は1898年5月に始まったが、地元の自治体やそこを仕切る犯罪組織のボスであるソーピー・スミス (Soapy Smith) との対応に関して障害に直面した。社長のサミュエル・H・グレーブス (Samuel H. Graves) が、ソーピーとその配下の詐欺師やならず者の一団を排除するための自警団の議長に選ばれた。1898年7月8日の夜、ソーピー・スミスとその護衛は、ある自警団の会合中、有名な「ジュノー・ワーフの決闘」(Shootout on Juneau Wharf) で殺害された。サミュエル・グレーブスはこの決闘に立ち会っていた。鉄道会社は配下のならず者たちの検挙を助けて、逃走ルートを遮断し、スカグウェイに残っていた鉄道建設の障害は解消された。1898年7月21日、アラスカ州で最初に運行された鉄道として、スカグウェイから4 マイル (6.4 km) の距離を観光用の列車が旅客を乗せて走った。1898年7月30日、3つの会社が所有していた鉄道の免許および関連する権利は、ロンドンで新たに設立されたホワイト・パス・アンド・ユーコン鉄道 (White Pass & Yukon Railway Company Limited) が買収した。1899年の2月半ばに、スカグウェイから20 マイル (32 km) のところにあるホワイト峠の2,885 フィート(879.3 m)の頂上まで建設工事が進んだ。1899年7月6日にブリティッシュコロンビア州のベネット (Bennett) まで到達した。また1899年の夏には、スカグウェイから110 マイル (177 km) 北のホワイトホースまで、カークロス (Carcross) からの建設工事も始められた。ベネットからの建設工事は湖岸の難しい地帯を通過したが、翌年カークロスまで到達し、1900年7月29日に最後の犬釘が打たれて、1900年8月1日から営業が開始された。しかしその頃にはもうゴールドラッシュは終わってしまっていた。

このとき打ち込まれたゴールデン・スパイク(鉄道の完成を記念して最後に打ち込む犬釘)は、実際には通常の鉄製のものであった。本当の金でできた犬釘も用意されていたが、金はやわらかすぎて打ち込むことができず、ハンマーを打ち下ろしただけで形がおかしくなってしまった。
第二次世界大戦までの運行 ベネット湖のほとりを行くホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートの列車 ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートの建物は現在は博物館となっており、クロンダイクゴールドラッシュ国定史跡公園の本拠地である

ゴールドラッシュは終わってしまったので、金よりも銅・銀・鉛などの他の鉱物を求めて本格的な鉱業が行われるようになった。もっとも近い港はスカグウェイであり、そこへ行く唯一の道はホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートが運営する河川の船と鉄道であった。

この鉄道では鉱石や精鉱が輸送需要の大半を占めたが、旅客やその他の貨物も輸送した。長い間、ユーコンへ行く容易な手段は他になく、またスカグウェイからは海路を使う以外に手段がなかった。

ホワイトホースからカーマックス (Carmacks) まで鉄道を延長するための資金と経路は準備が整っていたが、河川交通が混乱しておりボトルネックとなっていた。会社は鉄道を延長する代わりに資金を河川の船舶のほとんどを買収するために投じ、ホワイトホースとドーソン・シティを結ぶ安定した信頼できる交通手段を提供した。

ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートは、ホワイトホースからフォートセルカークまでの線路は結局建設しなかったが、1900年以降にいくらかの鉄道の延長工事を行っている。1901年にタク (Taku) の当局によりタク軌道 (Taku Tram) という2.5 マイル (4 km) の連水鉄道が建設され、これは1951年まで運行していた。この軌道では、タギッシュ湖 (Tagish Lake) で運航しているツチ号 (S.S. Tsutshi) と、アトリン湖をアトリン (Atlin) まで運航しているタラーネ号 (M.V. Tarahne)[1]を連絡して旅客と貨物を運んでいた。ツチ号は1990年に不審火で焼失したが、タラーネ号は復元されて殺人事件推理劇のショーを含むディナーを提供する船として運航されている。ツチ号を復元するために建造された救命艇はタラーネ号へ提供された。タク軌道では車両を転回することもできず、西向きに運行するときはバック運転を行っていた。ここで使われていた機関車の「ダッチェス」(Duchess) は、カークロスで保存されている。

1910年、ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートは、ホワイトホース近郊の鉱業地帯であるプエブロ (Pueblo) までの支線を運行するようになった。この支線は1918年に廃止された。貨物運搬用の道路がその跡を通っているが、多くの部分はバリケードで封鎖されている。1980年代のホワイトホース・スター紙の論説では、アラスカ・ハイウェイがホワイトホースを迂回してバイパスを建設する必要がある場合は、この経路が理想的であろうとしている。

ドーソン・シティのクロンダイク・マインズ鉄道 (Klondike Mines Railway) など、ユーコンにおけるほかのすべての鉄道が1914年までに廃止されたのに対し、ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートは営業を続けた。

世界恐慌の時期には交通需要は非常に少なくなり、しばらくの間1週間に1本の列車だけ運行された。
第二次世界大戦の時期の運行


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