ホワイトヘッド魚雷
ホワイトヘッド魚雷の機構。1891年公表。
種類対水上艦艇用魚雷[1]
原開発国 オーストリア=ハンガリー帝国
運用史
配備期間
1894年から1922年(マーク1およびマーク2)
1898年から1922年 (マーク3)
1910年から1922年(マーク5)
アメリカ海軍が運用[1]
配備先 イギリス海軍[2]
ドイツ帝国海軍[3]
フランス海軍[3]
オーストリア=ハンガリー帝国海軍[3]
イタリア王立海軍[3]
ロシア帝国海軍[3]
アルゼンチン海軍[3]
ベルギー海軍[3]
デンマーク海軍[3]
ギリシャ海軍[3]
ポルトガル海軍[3]
チリ海軍[3]
ノルウェー海軍[3]
スウェーデン海軍[3]
アメリカ海軍[4]
関連戦争・紛争露土戦争 (1877年-1878年)[5]
チリ内戦
ホワイトヘッド魚雷(ホワイトヘッドぎょらい)とは、自走式もしくは「機関式」として最初に開発された魚雷である。この機械は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍のジョバンニ・ルピス(英語版)がデザインを考察し、ロバート・ホワイトヘッド(英語版)により1866年に完成した。多数の海軍機関が1870年代にホワイトヘッド魚雷を入手し、その中にはアメリカ海軍が含まれる[3]。この初期の魚雷は露土戦争の戦闘で試され、1878年1月16日にオスマン帝国汽船「インティバー (Intibah)」は、ロシア帝国海軍の水雷艇が装備したホワイトヘッド魚雷によって撃沈された[5][9]。
歴史へこんだ試験魚雷とロバート・ホワイトヘッド(右側)。左側の人物は彼の息子ジョン。フィウメ、1875年ごろアルゼンチン軍の水兵とホワイトヘッド魚雷。フィウメ、1888年。
19世紀中、オーストリア海軍砲科のある無名士官が、爆発物を載せた小型艇を用いるという概念を思いついた。この艇は蒸気機関もしくは圧縮空気による機関で自走し、ケーブルによって舵を取り、敵艦船に対して投入する物だった。彼の死に際し、その試案はジョバンニ・ルピス大佐の手に入った。ルピスは装置の模型を製作しており、それはスプリング動力で駆動する自動式機構を備え、陸上からケーブルによって操舵されるものだった。機械は不満足な物で、ルピスはこれを「コースト・セイバー」と呼んでいた[10]。ルピスはオーストリアのフィウメにあった工場「スタビリメント・テクニコ・フィウマーノ」のために働いていたロバート・ホワイトヘッドを頼った[3]。1850年頃、オーストリア海軍はホワイトヘッドに対し、この設計を水線下を自走する魚雷として開発するよう依頼した。
ホワイトヘッドは自身では「Minenschiff」ミーネンシフ、機雷船と呼んだものを開発した。