ホワイトチャペル殺人事件
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この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。
"Nemesis of Neglect"
ジョン・テニエルが1888年に『パンチ』で発表した風刺漫画。ホワイトチャペルを徘徊する切り裂きジャックで表現された社会的貧困の印象。

ホワイトチャペル殺人事件(ホワイトチャペルさつじんじけん)、英語圏での呼称・ホワイトチャペル・マーダーズ(: Whitechapel murders)とは、1888年4月3日から1891年2月13日にかけてロンドンイーストエンドにあるホワイトチャペル地区や、その近隣で発生した11件の殺人事件のことである。見解によって異なるが、この11件の未解決事件の一部、またはすべてが有名な連続殺人者である切り裂きジャックの犯行と考えられている。

この事件の被害者の多くが売春婦だった。第1の被害者のスミス性的暴行を加えられたうえに略奪も受けた。第2の被害者のタブラムは39回刺された。ニコルズチャップマンストライドエドウッズケリー、マッケンジー、コールズは喉を切り裂かれた。エドウッズとストライドは同じ日の夜にすぐ近くで殺害された。この2名の殺害は、切り裂きジャックを称する人物が報道機関に送ったハガキで使われていた言葉から「ダブル・イベント(英: double event)」と呼ばれた。ニコルズ、チャップマン、エドウッズ、ケリーの遺体は腹部が切り開かれ、マイレットは絞殺された。身元不明の女性の遺体はバラバラに切断されたが、実際の死因ははっきりしない。

ロンドン警視庁ロンドン市警察だけでなく、ホワイトチャペル自警団(英語版)のような私的な組織も犯人の捜索にあたった。広範囲を捜査し、数名が逮捕されたが、真犯人は特定されなかった。この多数の殺人事件により、イーストエンドのスラムの生活状況の劣悪さに関心が向けられ、のちに改善されることとなった。不朽の謎となった真犯人の正体については、今日まで人々の想像力をかき立てている。
背景

ヴィクトリア朝後半、ホワイトチャペルはロンドンでもっとも悪名高い貧民窟 (ルーカリー(英語版)) と考えられていた。フラワー・アンド・ディーン・ストリート(英語版)周辺の地域は「ロンドン中でおおよそもっとも不潔で危険な通り」と評された[1]。ドーセット・ストリート(英語版)は「ロンドンで最悪の通り」と呼ばれた[2]。ロバート・アンダーソン(英語版)警視監は、危険なものに興味を持つ人ならば、ホワイトチャペルはロンドンで主要な犯罪の「名所」のひとつだから気に入るだろうと評した[3]。ホワイトチャペルでは略奪や暴力が当たり前だった。極端な貧困、標準に劣る住宅供給、ホームレス、酔っ払い、蔓延する売春がホワイトチャペルの特徴で、要素は「コモン・ロッジングハウス(英語版)」に集中していた。この施設は生活困窮者に安価で共用の住宅設備を提供しており、ホワイトチャペル殺人事件の被害者たちもこの施設に住んでいた[4]。身元が判明した被害者は全員、スピタルフィールズ(英語版)のルーカリーの中心部に住んでいた。3名はジョージ・ストリート(のちのロールズワース・ストリート)、2名はドーセット・ストリート、2名はフラワー・アンド・ディーン・ストリート、1名はスロール・ストリートに住んでいた[5]

警察の仕事や犯罪の告発は、自白を受ける、目撃者の証言を得る、犯罪行為の最中または犯罪に明らかに関係している明確な物的証拠を所有中の犯人を逮捕するというような手段に頼っており、指紋の分析のような科学捜査は行われていなかった[6]。ロンドンの警察組織は現在と同様に2つに分かれていた。都市地域のほとんどが管轄のロンドン警視庁と、都心の約3平方キロメートルの範囲が管轄のロンドン市警察である。イギリス政府の上級大臣である内務大臣がロンドン警視庁を管理した一方で、ロンドン市警察はシティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)が責任を負った。巡査は定期的に経路を歩いて巡回した[7]

1888年から1891年にホワイトチャペルやその近隣で発生した11件の殺人事件は1つの資料にまとめられ、警察の犯罪記録ではWhitechapel murdersと呼称された[8][9]


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