ホワイトオーク道路の戦い
[Wikipedia|▼Menu]

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度8分54.4秒 西経77度31分10.8秒 / 北緯37.148444度 西経77.519667度 / 37.148444; -77.519667

ホワイトオーク道路の戦い
Battle of White Oak Road
南北戦争

時1865年3月31日 (1865-03-31)
場所バージニア州ディンウィディ郡
結果北軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ガバヌーア・ウォーレンロバート・E・リー
部隊
第5軍団アンダーソンの軍団(第4軍団)
戦力
22,000名 [1]8,000名 [1]
被害者数
1,870名[2]800名[2]











アポマトックス方面作戦


ルイス農園

ホワイトオーク道路

ディンウィディ・コートハウス

ファイブフォークス

第三次ピーターズバーグ

サザランド駅(英語版)

ナモザイン教会

アメリア・スプリングス

ライス駅(英語版)

セイラーズクリーク

ハイブリッジ

カンバーランド教会

アポマトックス駅

アポマトックス・コートハウス

ホワイトオーク道路の戦い(ホワイトオークどうろのたたかい、: Battle of White Oak Road、またはハッチャーズランの戦い、グレイブリーランの戦い、ボイドトン板張り道路の戦い、ホワイトオーク尾根の戦い)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月31日に、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦の終わりからアポマトックス方面作戦の始まる時期に当たっていた。同じ3月31日に起きたディンウィディ・コートハウスの戦いと共に、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍による最後の攻勢であり、ユリシーズ・グラント中将が指揮する北軍ポトマック軍シェナンドー軍ジェームズ軍)の進軍を止めようとした。グラント軍は、南軍に残っていた供給線を遮断し、南軍を会戦に引き出して決戦を挑ませることができないまでも、ピーターズバーグからリッチモンドまで構築された防衛前線をさらにその極限まで延伸させるように動いていた[3]

1865年3月29日、ガバヌーア・ウォーレン少将の北軍第5軍団が南軍防衛線の最右翼であるホワイトオーク道路前線の端に移動した。その日に起きたルイス農園の戦いの結果、ウォーレンの軍団が南軍の哨戒線あるいは前進基地陣地の支配権を取り、重要な輸送と通信の経路であるボイドトン板張り道路をクエーカー道路との交差点で抑えた。ウォーレンの軍団はフィリップ・シェリダン少将の部隊(シェナンドー軍)に最も近い歩兵部隊だった。シェリダン軍は南軍前線の端から西に約4マイル (6.4 km) のディンウィディ・コートハウスに移動しており、ファイブフォークスのすぐ南にあった[4]。ファイブフォークスは南軍の重大な供給線であるサウスサイド鉄道を支配するための重要な交差点だった。

第5軍団ロメイン・B・エアーズ准将の師団に属するフレデリック・ウィンスロップ大佐の旅団が、3月30日の篠突く雨の中で、南軍のホワイトオーク道路前線に近いグレイブリーランを渡ってさらに前の位置を占めた。エアーズは配下の部隊がどれだけ南軍の前線に近く位置しているか気づいておらず、その観察と思い込みに反して南軍の前線はその新しい陣地の端を越えて伸びていた。このことと、エアーズの軍団とシェリダンの騎兵隊が離れていたことで、翌日エアーズ隊が南軍に急襲されたときに重要な要素になった。ウォーレンの軍団はチャールズ・グリフィン准将(名誉少将)が先導しており、その第1師団が反撃して南軍を当初の前線まで押し返し、前進陣地を確保して、ホワイトオーク道路とボイドトン板張り道路を通して南軍がジョージ・ピケット隊と直接通信する経路を遮断した。ウォーレンはその陣地を確保した後で、部隊を送ってピケット隊の側面を攻撃して追い返した。その日ピケット隊はディンウィディ・コートハウスでシェリダン隊を追い落としており、このウォーレン隊の動きが無ければ、シェリダン隊が大きな敗北を喫していたはずだった。

ホワイトオーク道路とディンウィディ・コートハウスの戦いは当初南軍が成功しており、ディンウィディ・コートハウスでは戦術的な勝利だったが、最終的にその前線を押し出すことができず、北軍を弱らせ追い返すという、あるいはシェリダン軍と支援部隊を分離するという戦略的目標も果たさなかった。これらの戦闘とその後の経過によって、翌4月1日のファイブフォークスの戦いで南軍が敗北してその前線が崩壊し、さらに4月2日の第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破とも呼ばれる)でも敗北し、最後は4月9日のアポマトックス・コートハウスの戦い後に、リーの北バージニア軍が降伏することになった。
背景「ピーターズバーグ包囲戦」も参照

1864年6月15日から18日、北軍ポトマック軍の2個軍団が感知されずに動いて、ピーターズバーグ市の郊外でジェームズ軍と合流したが、その後の第二次ピーターズバーグの戦いで南軍の小勢の守備隊から市を奪うことができなかった。その結果、292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)が始まった[5]。北軍の総司令官ユリシーズ・グラントは塹壕と消耗戦の作戦を遂行するしかなくなった。数的に劣勢な南軍を消耗させピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、防衛線を長くさせることで弱っていく南軍に限界まで守らせるようにすることだった[6][7]

1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった[8]。リーはこのとき、その軍隊の一部あるいは全軍がリッチモンドとピーターズバーグを離れ、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、ノースカロライナ州で北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍に対抗しているジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった[9][10][11][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:130 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef