ホルヘ・センプルン
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ホルヘ・センプルン
Jorge Semprun
ホルヘ・センプルン
2009年5月23日 モンペリエ
ペンネームフェデリーコ・サンチェス
誕生ホルヘ・センプルン・マウラ
(1923-12-10) 1923年12月10日
スペイン, マドリッド
死没 (2011-06-07) 2011年6月7日(87歳没)
フランス, パリ
職業作家脚本家政治家
言語フランス語スペイン語
国籍 スペイン
最終学歴ソルボンヌ大学
ジャンル自伝歴史哲学
主題強制収容所 (ナチス)フランコ体制下のスペイン
代表作『ラモン・メルカデルの第二の死』
『フェデリーコ・サンチェス回想録』
『ブーヘンヴァルトの日曜日』
『人間という仕事』
主な受賞歴フェミナ賞
プラネータ賞
ドイツ書籍協会平和賞
エルサレム賞
デビュー作『大いなる旅』
スペイン文化相 (1988-1991)
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ホルヘ・センプルン・マウラ(Jorge Semprun Maura、1923年12月10日 - 2011年6月7日)は、スペイン作家脚本家政治家
人物

スペイン内戦第二共和政が崩壊するとフランスに亡命し、第二次大戦中にレジスタンスに参加してゲシュタポに捕えられ、ブーヘンヴァルト強制収容所に送られた経験を持つ。主にフランス語で執筆し、『ラモン・メルカデルの第二の死』、『フェデリーコ・サンチェス回想録』、『書くこと ― 生きること』(邦題『ブーヘンヴァルトの日曜日』) などの自伝的作品でフェミナ賞プラネータ賞ドイツ書籍協会平和賞など多くの賞を受賞した。1988年から1991年にかけてはゴンサレス政権で文化相を務めた。
背景 (スペイン共和派 - フランス亡命)

ホルヘ・センプルンは1923年12月10日、マドリードに生まれた。母方の祖父アントニオ・マウラ(スペイン語版)は1903年から1922年まで5度にわたってスペイン首相を務めた。母方の叔父ミゲル・マウラ(スペイン語版)はニセト・アルカラ=サモラ(スペイン語版)らとともに共和派を率い、1930年に共和政樹立に向けてサン・セバスティアン協定を締結。第二共和政が成立すると内相に就任した。父ホセ・マリア・センプルン (1893-1966) も共和派で、トレド県知事を務めた後、スペイン第二共和政の外交官としてハーグ(オランダ)に赴任し、さらに1937年から39年までイタリアに滞在した[1]

1939年、フランコ率いる反乱軍がスペイン全土を制圧し、第二共和政が崩壊すると、センプルン一家はフランスに亡命。ヴァル=ドワーズ県のサン=プリに居を定めた。当時16歳のセンプルンはアンリ4世高等学校に通い、さらにソルボンヌ大学哲学を修めた[2]
レジスタンス - 義勇遊撃隊

第二次大戦下の1939年8月に締結された独ソ不可侵条約は、1941年6月にドイツ軍がソ連領内に侵攻を開始したことで事実上破棄された。これを機に、フランス共産党ヴィシー政府の対独協力政策に対して公然と反対を表明し、モスクワからの指令に従って1942年4月に武装ゲリラ組織「義勇遊撃隊(フランス語版)(FTP)」を結成[3]。ソルボンヌ在学中にスペイン共産党に入党したセンプルンは、義勇遊撃隊員としてレジスタンスに参加した[2]
ブーヘンヴァルト強制収容所

1943年、ジョワニー(ブルゴーニュ)で英国の特殊作戦執行部 (SOE) のモーリス・バックマスター大佐率いるフランス班で働いていたマキに調達する武器をパラシュート隊から受け取っていたところをゲシュタポに捕えられ、オセールの刑務所に一時留め置かれた後、ブーヘンヴァルト強制収容所に送られた。彼はスペイン人収容者の労働管理の仕事を任せられた。強制収容所の多くは連合国軍により解放されたが、ブーヘンヴァルト強制収容所では様々な国籍の収容者から成る国際秘密委員会を中心とした蜂起により解放されており、センプルンもこの活動に参加した。作戦は4月8日に開始された。カポの協力を得て高圧電線が張り巡らされた鉄条網の電源を切り、監視塔を襲撃して武器を奪って脱出。収容所に接近してきた米軍に近づくための中継点を設置し、ついに4月11日、パットン部隊に強制収容所の存在を知らせることができ、同日、解放された[4]
戦後

1945年4月末にパリに戻ったセンプルンは、「生き延びるために故意に忘れること」にし、実際、最初の自伝的小説『大いなる旅』を発表したのは1963年のことである。戦後数年間、ユネスコで翻訳の仕事をした後、スペインに戻り、フェデリーコ・サンチェスの偽名でスペイン共産党秘密工作員となり、フランコ政権への抵抗を続けたが、1964年に党の方針から逸脱するとして、サンティアゴ・カリーリョ書記長に除名された[5]

こうしてセンプルンは再び亡命を余儀なくされた。フランス亡命後は、政治活動から身を引き、文学に転じ、しかもフランス語で著作活動に専念することにした。

ただし、1988年から1991年には社会労働党 (PSOE) のフェリペ・ゴンサレス政権で文化相を務めたが、党内の対立により辞任した。この間の経緯は1993年出版の『フェデリーコ・サンチェスより敬意を表して』に詳しい[6]
著作活動

センプルンの作品のうち、『大いなる旅』、『失神』、『なんと美しい日曜日』、『必然的な死』、『ブーヘンヴァルトの日曜日』、『20年と1日』は、ブーヘンヴァルト強制収容所での体験を中心とした自伝的な小説であり、『フェデリーコ・サンチェス回想録』、『ラモン・メルカデルの第二の死』、およびセンプルンが脚本を手がけたアラン・レネ監督の『戦争は終った』はフランコ体制下のスペインにおける共産党秘密工作員としての活動を描いている。また、政治評論として欧州問題を中心に『欧州人』、『左派はどこへ行ったのか』、『雲間の墓標』などを著している。没後出版の『人間という仕事 ― フッサール、ブロック、オーウェルの抵抗のモラル』は、2002年にフランス国立図書館で行われた3回の講演の記録であり、哲学者フッサール、歴史学者マルク・ブロック、作家ジョージ・オーウェルの分析を通して、人間は危機にあたっていかに生きるべきかを語っている。

センプルンはこうした作品により、スペインのフォルメントール賞、プラネータ賞、芸術功労勲章、フランスのレジスタンス文学賞、フェミナ賞、ドイツ書籍協会平和賞、イタリア国際ノニーノ賞、米国のエドガー・アラン・ポー賞映画部門など世界各国の賞を数多く受賞し、レンヌ第二大学、パリ東大学マルヌ・ラ・ヴァレ校などから名誉博士号を受けている。
死去


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