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ホルシュタイン=ゴットルプ家(ホルシュタイン=ゴットルプけ、独: Haus Holstein-Gottorf, 丁: Huset Holsten-Gottorp, 典: Holstein-Gottorpska atten)は、デンマークの王家であったオルデンブルク家の分家にあたる貴族の家系。16世紀から18世紀にかけて、デンマーク南端のシュレースヴィヒ公国およびドイツ(神聖ローマ帝国)北端のホルシュタイン公国を、オルデンブルク家と共同で統治していた。両家による両公国の共同統治は、シュレースヴィヒで1713年まで、ホルシュタインでは1773年まで続いた(以後はオルデンブルク家の単独統治となり、ゴットルプ家は統治権を失った)。
ゴットルプ家はオルデンブルク家と対立し、独自の外交を展開することもしばしばであった。18世紀には、ゴットルプ家の3つの家系がスウェーデン、ロシア、北ドイツのオルデンブルク公国(のち大公国)の君主位をそれぞれ獲得した。スウェーデン(ホルシュタイン=ゴットルプ王朝)では19世紀初頭まで、他の2国では20世紀に君主制が廃止されるまで続いた。
家名については、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ家(Haus Schleswig-Holstein-Gottorf)とも称される。ゴットルプの家名は、都市シュレースヴィヒにあった居城ゴットルプ城 (Schloss Gottorf) に由来している。キールを首府とするゴットルプ家の領邦は、ホルシュタイン=ゴットルプ公国とも呼ばれる。
歴史ホルシュタイン=ゴットルプ家の祖アドルフゴットルプ城「ホルシュタイン公国」も参照
ホルシュタイン=ゴットルプ家は、デンマークの王家オルデンブルク家から分かれた。オルデンブルク家は元来、北ドイツのオルデンブルクを中心とするオルデンブルク伯領を治めていたが、1448年にクリスチャン1世がデンマーク王位に就いて以来、19世紀までデンマーク王家として続いた。1544年、デンマーク王クリスチャン3世が、異母弟アドルフをシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の共同統治者(共同君主)としたのがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ家(以下、ゴットルプ家)の始まりである。
ホルシュタインは神聖ローマ帝国の領域内にあり、住民はデンマーク人だけでなくドイツ人も多く、ドイツ語が支配的な地域であった。このためゴットルプ家は次第にドイツ化していったが、一方でオルデンブルク家嫡流からたびたび王女を妃に迎えてつながりを保った。また、スウェーデン王家(ヴァーサ家、プファルツ=クレーブルク家)にも王妃を出していたが、そのためにデンマーク、スウェーデンの2国間で複雑な立場に置かれた。
スウェーデンとデンマークは共にゴットルプ家への影響力を行使しようとし、このため北欧の両大国は17世紀半ばからシュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国を巡って抗争を繰り広げることとなった。ゴットルプ家は両公国の主権を獲得するためにスウェーデンと同盟を結んだ。18世紀初頭の大北方戦争においてスウェーデンが敗北したため、同盟関係は打ち切られた。以後ゴットルプ家は、大国として著しい台頭をしたロシア帝国のロマノフ家と結び付きを深めて行くこととなった。
スウェーデン王家詳細は「ホルシュタイン=ゴットルプ王朝」を参照
第6代シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの叔父で摂政であったクリスティアン・アウグストの子アドルフ・フレドリクは、1751年にスウェーデン王に迎えられ、ホルシュタイン=ゴットルプ王朝(1751年 - 1818年)を創始した。ゴットルプ家は、1720年までのスウェーデンの王家プファルツ=クレーブルク家の外戚であったが、ヘッセン家の先王フレドリク1世との姻戚関係はなかった。大北方戦争終結時にニスタット条約に調印しているが、そのためか元々は親ロシア派であった(ヘッセン家は親西欧派であり、大北方戦争以後も対立を続けていた)。
第2代国王グスタフ3世の頃は大いに国威が昂揚したが、ナポレオン戦争の最中、ロシアにフィンランドを奪われるなど失態を犯し、クーデターによって1809年に立憲君主制に移行した。1818年のカール13世の死後、現王家であるベルナドッテ家に代わったが、家系としてはクーデターで廃された王太子グスタフが1877年に、その娘でザクセン王妃となったカロラが1907年に死去するまで続いた。
ロシア皇帝家詳細は「ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家」を参照
カール・フリードリヒ公はロシア皇帝ピョートル1世の娘アンナ・ペトロヴナと1725年に結婚した。その子カール・ペーター・ウルリヒは子供のいないロシア女帝エリザヴェータ(アンナの妹)の養子に迎えられ、1762年にロシア皇帝ピョートル3世となった。