株式会社ホリプロ
Horipro Inc.ホリプロ本社ビル(東京都目黒区)
種類株式会社
市場情報非上場(以下は過去のデータ)東証1部 9667
株式会社ホリプロ(Horipro Inc.)は、日本の総合エンターテインメント企業。 1960年5月に有限会社堀プロダクションとして設立され、1963年1月に株式会社へ改組し、社名をホリプロダクション(略称:ホリプロ)に社名変更。1990年10月に株式会社ホリプロへと2度目の社名を変更、それまでの略称名が正式社名となった。 「芸能プロを一企業として社会に認知させたい」との思いから経営の健全化を進め、1989年に業界初の株式公開を果たし、1997年には東証2部(現・スタンダード)上場、2002年9月には東証1部(現・プライム)上場を果たした[2]。しかし、2011年12月には、経営環境の変化から経営の自由度を確保するため、マネジメント・バイアウト(MBO)による上場廃止を発表した[3]。 創業者の堀威夫は、一貴(ホリプロ・エンターテインメント・グループ・インク社長)・義貴(現・ホリプログループ会長)兄弟の父親で、元・ファウンダー最高顧問。
概説
歴史
社名に個人名を付けたのは、東洋企画の分裂劇で追われたため、自らの会社である事をアピールするためであったという(堀威夫の項目も参照)。現在でこそ女性タレントの活躍振りが目立つが、設立初期は「僕は泣いちっち」や「有難や節」等でヒットした守屋浩(現在は同社スカウト部長を兼任)を売り出していた。ホリプロダクションに社名変更後は舟木一夫、ザ・スパイダース、ザ・ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等が活躍する一方で、また映画監督・CMディレクターの大林宣彦を起用して、丹頂(今のマンダム)が社運を賭けて発売したチャールズ・ブロンソンが出演したことで知られる「マンダム」のCMを制作する[4]等小規模ながらも芸能事務所として知られるようになっていった。
1970年代前半には、井上陽水等のフォーク系のアーティスト等を扱う部門として「カレイドスコープ」を設け[5]、浜田省吾等がいた愛奴等も所属していた[6]。
1970年代中頃から後半は、主に山口百恵や石川さゆり、森昌子等の活躍によって、堀威夫が目標とし、かつ最大のライバル事務所であると語っていた渡辺プロダクション等に次ぐ勢力となった(堀の自伝によれば、ミュージシャン時代一時期ナベプロにマネージメントしてもらっていたが、やがて決裂したという因縁があったという)。特に東宝で公開された一連の山口主演映画はコンスタントに10億近くの配給収入を上げ続けたが、比較的低予算でありながらハイリターンをもたらしホリプロにとっても東宝にとっても金看板的スターとなった。また社名を冠した「ホリプロタレントスカウトキャラバン」からは榊原郁恵等が誕生し、事務所名が茶の間に知れ渡った[7]。