ホメーロス問題(ホメーロスもんだい)とは、ホメーロスの正体と、『イーリアス』と『オデュッセイア』の著述に関しての論争のこと。この論争は古代からあるが、基本的には19世紀から20世紀の間に討論された。伝統的な口誦詩の研究が進むにつれて、ホメーロス問題は重要性が薄れるか、または少なくとも抜本的に再公式化されるようになった。
目次
1 今日の研究状況
2 歴史の概観-古代文献学
3 フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ以降の研究
3.1 分析論
3.2 統一論
3.3 新分析論と口誦詩(オーラル・ポエトリー)研究
4 文献
5 脚注
ホメーロス問題の研究史を総合した結果、大体のところ次のような仮説が受け入れられている。 両者の叙事詩は、口承から著作への移行期間の(ヨーロッパ文化史
今日の研究状況
ホメーロス(紀元前700年頃)以前、既にトロイア伝説の素材が存在した。
確固たるヘクサメトロス(ミルマン・パリーを参照)の形式で口述によって即興で詩作する伝統は、ホメーロスの時代にして既に約850年の歴史を持つものであった。
ホメーロス個人は有能な歌い手であり、文字使用を通じて過去100年に渡って蓄積されてきた素材を構成するノウハウを利用し、手持ちの伝説の素材の平均的形態を一つ(「イーリアス」と「オデュッセイア」の起草者が同一であることを了承するのなら、二つとも言える)、独力で作り上げた。
51日間の物語で語られる、「アキレウスの恨み」に力点を置いた、トロイア陥落の遅延に関する詩=イーリアス
40日間の物語で語られる、トロイア戦争参加者オデュッセウスの帰還が成功することについての詩(オデュッセウスの帰郷)=オデュッセイア
この仮説を根拠付けるため、現在では世界中で研究が行われている。 古代のホメーロス文献学は紀元前2世紀及び紀元前3世紀に全盛期を迎えた。最初の論争の中心はアレクサンドリア大図書館であった。ホメーロス解説者であったエフェソスのゼノドトス
歴史の概観-古代文献学
一人の著者が叙事詩の起草者であることについては、紀元前2世紀になって初めて、急進的なコリゾンテン学派(分割学派)によって否定された。分割学派には文法家のクセノンやヘラニコスらがいた。分割学派は相反する見解を代表していたアリスタルコスと活発に論争した。やがてこの論争は両叙事詩の構造の起源について決定的な考察に帰結した。ある理論によれば、アテーナイの僭主であったペイシストラトスが今まで混乱・混淆していたホメーロスの諸巻を固有の正統的評価に従って整理した、というのである。
紀元後1世紀、ホメーロス問題は、ユダヤ人の歴史家であったフラウィウス・ヨセフス(37年/38年?100年)にとっての論争上の武器として役立てられた。アレクサンドリアの文法家でありホメーロス専門家でもあったアピオンに対して書かれた「ユダヤ人の上代について」(アピオンへの論駁)の中でヨセフスは、ギリシア人はユダヤ人よりもかなり遅くに読み書きを覚えた、と述べている。というのも、ギリシア最古の記念碑的著作であるホメーロスは「彼の詩作を、人が言うように、一度として文字によっては残さなかったのであり、彼の詩は記憶によって再提示されるが、故に多くの意味の通らない部分を含んでいるということである」からである。
ホメーロス問題はその後、14世紀中頃にフランチェスコ・ペトラルカ(1304年?1374年)が採り上げるまで沈静化していた。ペトラルカはホメーロスを西欧世界に知らしめた人間である。近代に於ける問題への取り組みは、ホメーロスの詩に対する強い歴史的意味付けによって特徴づけられている。この取り組みによって、ホメーロスの正確な時間的位置づけや、ホメーロスの詩が置かれていた諸条件に対しての問題が提起されることとなった。こうした様相の下、オランダの歴史家ヨハネス・ペリゾニウス(1568年?1631年)は古代についての論争を再び採り上げた。ペリゾニウスの理論によれば、ホメーロスは口述によって諸歌を詩作したが、その諸歌が後に書きとめられ、ペイシストラトスの指示によってアテーナイで組み合わされた結果イーリアスとオデュッセイアが成立した、という。
1715年に公表されたオベニャックのアベ(神父)であったフランソワ・エデラン(英語版)の説は、あまり真剣なものとは考えられなかった。エデラン説ではホメーロスという一人の人間の存在自体が争点となった。