ホスバッハ覚書
[Wikipedia|▼Menu]
会議が行われた総統官邸

ホスバッハ覚書(ホスバッハおぼえがき、ホスバッハ・メモランダム、英語: Hossbach Memorandum、ドイツ語: Hosbach-Niederschrift)は、1937年11月5日ナチス・ドイツ総統官邸において開催された、ドイツ国防軍首脳および外相コンスタンティン・フォン・ノイラート、そして総統アドルフ・ヒトラーによる秘密会議の概要を記した覚書。この日の会議でヒトラーは初めて対外侵略の構想を明かし、戦後のニュルンベルク裁判においてはドイツの侵略準備の証拠として採用された[1]。ホスバッハとは、会議の出席者の一人で、この覚書の作成者である陸軍参謀本部中央課長兼総統付高級副官フリードリヒ・ホスバッハ大佐を指す。
会議開催までの経緯
ドイツ経済の隘路「ナチス・ドイツの経済」も参照

ナチ党の権力掌握以降、ヒトラー政権下では軍備の拡張政策が次々に推し進められていた。しかしあまりに急速な軍需産業の拡大は、他の経済分野や陸海空軍間での軋轢を生み出した。当時ドイツでは、一経済圏内で経済を完結させるアウタルキー政策(閉鎖経済)の傾向が強まっていた[2]。さらに軍需方面への生産拡大は、必然的に輸出産業となる分野への労働力や資源の割り当てを減少させることとなり、外貨不足が一層悪化しつつあった[2]。また1935年と1936年の不作による食料品輸入の増大がこれに拍車をかけた[3]

1937年4月2日、経済相ヒャルマル・シャハトは軍備拡張政策が輸出の停滞を招き、その結果の外貨不足が農産物などの輸入をも困難にすると警告している[4]。こうした経済危機を打開する方策として、軍備拡張政策を緩和し、国民生活を切り詰めて輸出産業を拡張し、貿易を円滑化するために対外協調政策を推進する案と、戦争を起こして敗者から収奪する案という2つの選択肢が存在していた[4]
四カ年計画「四カ年計画」も参照

1936年9月9日、ナチ党党大会において四カ年計画の開始が宣言された。ヒトラーは計画のための覚書を作成したが、その中では現状の打開は「生存圏の拡大、詳しく言えば、つまり原料基盤と食糧基盤の拡大」しかないとしており、「ドイツ経済とドイツ軍は4年以内に戦争できる体制にならなければならない」とした[5]。ヒトラーが選択したのは戦争であり、いわゆる東方生存圏の獲得による解決策であった[3]。四カ年計画全権には航空大臣兼空軍総司令官でもあるヘルマン・ゲーリングが任じられた。

しかし、四カ年計画庁によって行われた鉄鉱石などの資源割り当ては、全産業分野における深刻な原料不足をもたらし、状況は一向に改善されないどころか悪化の一途をたどることになった。軍需産業も十分な生産を行うことができず、軍備拡大のペースが明らかに停滞し始めた[6]
会議の開催
会議開催の要請

原料不足は軍部内にも陸海空軍間における資源収奪競争をもたらし、自らの権力とヒトラーへの距離によって空軍に有利な裁定を行うゲーリングへの不満が高まりつつあった[6]。軍部内で最も不利な立場にあったのが、規模が小さく政治的な影響力の小さい海軍であった。海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督は現状の2倍の鉄鋼割り当てが必要であると考えた。レーダーは英独海軍協定による対英35%の海軍力、ヒトラーの命じた強力な戦艦製造、対英戦に耐えうる海軍力の増強を考慮していた[6]

1937年10月15日、レーダーは国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥に対し、建艦と設備拡大を断念するか、もしくは海軍への鉄鋼割り当てを2倍にするかという最後通牒を行った[7]。ブロンベルクもかねてからゲーリングに不信感を持っており、さらに陸海軍のバランスを取るためにもレーダーと協調する必要性を感じていた[8]ナチ党の有力者であり、さらにブロンベルクと同格の大臣でもあったゲーリングを押さえられるのはヒトラーしかおらず、「総統の決断を仰ぐ」必要があった。こうしてブロンベルクは原料割当問題の最終的解決のために、会議の開催を要請した[8]。ブロンベルクは陸海空軍に原料問題に関する専門将校を準備しておくよう命令し、総統官邸の次の間に控えさせておいた[8]
ヒトラーの会議構想

ところがヒトラーは原料問題における調停を行うつもりはなかった。この問題においてはすべての関係者が満足する解決策はあり得ず、さらに軍備拡張政策自体が一種の賭であることを表明しなければならない事態に追い込まれることを怖れていた[8]。ヒトラーは会議の方向性を外交問題にすりかえることを望み、会議の直前になって参加者として外相のコンスタンティン・フォン・ノイラートを加えさせた[9]

ニュルンベルク裁判においてゲーリングは、陸軍の軍備拡大のペースが遅いことからブロンベルクに不満を持っていたヒトラーが、緊迫した外交情勢を説明することで軍備拡大の必要性を示し、「はっぱをかける」ために会議を行ったと証言している[9]
会議

11月5日の午後4時15分、総統官邸の会議室において会議が開催された[10]。出席した軍首脳たちは原料問題には関係の無いはずのノイラート外相が出席していることに驚いた。会議の冒頭、ヒトラーはこれから述べることは、テーマが重要であるため閣議で議論することは差し控えるとした上で「自分が死んだ場合に備えて遺言として残したものと見なしていただきたい」と前置きし[1]、ドイツの政治目標について語り始めた。その後には外交政策について語りはじめ、1945年までの段階で武力による拡張を目指すべきであると説いた。他の参加者は後に意見を述べたものの、会議の第一部はほとんどヒトラーによる独演会であった。第二部には軍備問題が話し合われた[11]。会議が終了したのは午後8時30分であった[12]
出席者

アドルフ・ヒトラー総統

ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(国防大臣)

ヴェルナー・フォン・フリッチュ(陸軍総司令官)

エーリヒ・レーダー(海軍総司令官)

ヘルマン・ゲーリング(空軍総司令官・航空大臣)

コンスタンティン・フォン・ノイラート(外務大臣)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef