ムハンマド・ホスニー・ムバーラク
محمد حسني مبارك
エジプト・アラブ共和国
第2代 大統領
任期1981年10月14日 – 2011年2月11日
首相一覧参照
ホスニー・ムバーラク(大統領兼任)
アフマド・フアード・モヘユディーン
ムハンマド・ホスニー・ムバーラク(アラビア語: محمد حسني مبارك, ラテン文字表記: Muhammad Husnī Mubārak, 1928年5月4日 - 2020年2月25日)は、エジプトの軍人、政治家。日本ではムバラクと表記されることが多い。
共和政エジプト第4代大統領(第2代エジプト・アラブ共和国大統領)として約30年にもわたる長期政権を維持したが、2011年の革命によって失脚した。 ミヌーフィーヤ県のカフル・エル・ムスリフ村に生まれた。父は小さな地主で、県の法務局で働いていた。父はムバーラクにカイロ大学へ進学することを勧めていたが、1948年の第一次中東戦争が状況を変えた。戦後、アラブ軍の無能力が明らかになり、有能な人材を集めるために中産階級にも将校への道が開かれた。ムバーラクは飛行士の道を進み、1949年に士官学校を優等で卒業した。 士官学校卒業後はシナイで勤務し、その後は空軍士官学校の教官となった。1956年、第二次中東戦争に従軍。1959年2月から1961年6月までソビエト連邦で訓練を受け、各種ソ連機の操縦に習熟した。 1959年、Tu-16爆撃機の飛行隊長に任命され、数年後、旅団長となった。1962年に北イエメン内戦が勃発すると、ムバーラクも派遣部隊に編入され戦闘行動に参加した。1964年から1965年にかけてソ連のフルンゼ軍事大学で将校教育も受けた。
生涯
生い立ち・軍人へ
1973年の第四次中東戦争ではイスラエル軍防衛陣地への電撃作戦で戦局を有利に導き、国民的英雄となった。戦後、最高勲章である「シナイの星」勲章を授与され、空軍元帥に昇進した。 第四次中東戦争の緒戦における電撃作戦の功績を、サダト大統領に評価されたムバーラクは1975年4月に副大統領に任命され、1976年3月のサダト大統領によるソ連との友好協力条約の破棄により、供給されなくなったソ連製航空兵器のスペアが必要となったことを受けて翌4月に中ソ対立を起こしていた中華人民共和国を訪れて国家主席の毛沢東と会見して中国製の戦闘機F-6や爆撃機H-6などを獲得し[1][2]、代わりにエジプトからはソ連製戦闘機のMiG-23などが中国に引き渡された[3]。さらに1978年には、アラブ社会主義同盟に代わって創設された国民民主党の副総裁となり、サダト大統領の後継者として有力視されるようになる。
大統領へ
大統領に就任したムバラクは、サダトの親米・親イスラエル路線を継承し、イスラエルとパレスチナの中東和平交渉では両者の調停役として尽力した。イスラエルとの交渉の結果、1982年4月には第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の返還を実現している。
冷戦期のムバラクの外交路線は基本的に西側寄りであるが、サダト時代に摩擦を起こした東側・アラブ諸国との外交関係の修復に努め、1984年にソ連と関係正常化し、1990年にはアラブ連盟への復帰に成功した。冷戦終結後は1989年に湾岸協力会議に対抗してイラクのサダム・フセイン、イエメンのアリー・アブドッラー・サーレハ、ヨルダンのフセイン1世とアラブ協力会議(英語版)を結成するも、1990年の湾岸戦争でヨルダンやイエメンが前述の関係からイラクとの戦争に反対する中で8月にカイロでアラブ連盟緊急首脳会議を開いてイラク非難決議を強行し、1991年1月はアメリカ・サウジアラビアを中心とする多国籍軍へのエジプト軍の参加を決定した。また、かつてともにソ連に留学してカイロで訓練を受け[4]、イラクと対立してるシリアのハーフェズ・アサドによるシリア軍の参戦決定にも貢献したとされる[5]。ムバラクはアサド、サウジ国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズと親密な間柄を築いた[6]。