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やノートページでの議論にご協力ください。ホクレア(ハワイ語: H?k?le?a)は、
もともと、うしかい座の1等星「アークトゥルス」のことで、この星を頼りにポリネシア人はポリネシア航法でハワイへ移住したといわれている。 [1]
古代のポリネシアで用いられていた木造船(航海カヌー、Voyaging Canoe)のレプリカ。日本語では「ホクレア号」と呼ばれることも多い。本項で詳述。
ジャルパックがオアフ島にて運行している日本人観光客向けの観光バス。同社のツアーの多くに附属している「I'llカード」「AVAカード」の所持者は無料で利用出来る。出発地点はDFSギャラリア・ワイキキ前で、レギュラー・コースは「ベスト・オブ・オアフ」、「ハワイアン・ヒストリカル・ツアー」、「ナイト・ツアー・イミロア」の3つであるが、この他に限定企画のコースも設定されることがある。なおジャルパックの親会社である日本航空は航海カヌー「ホクレア」の2007年の日本航海の公式スポンサーでもある。
日本のバンド「BEGIN」が2007年に製作・発表した楽曲。1.の航海カヌーを取り上げたテレビ番組の主題歌にも使われた。
遊行寺たまの漫画「+C sword and cornett」に登場する種族の名前。
総説左舷の船尾部分。デッキから海中に降りているのはメイン・ステアリング・スウィープ。ホクレアのキッチン。ヤカンはホノルル市内で調達されたもの。蓋付きバケツは中身を食べ終えた後、働きの良いクルーから順に与えられる[2]。ホクレアのデッキ後端クロスビーム。「カプ・ナ・ケイキ(子供たちを神聖なものとして扱え)」の標語はナイノア・トンプソンによる。左舷のステアリング・スウィープの柄。ホクレアの各所には寄港地やモットー、重要な人物の名前などが無数に書き込まれている。睡眠区画内。無線機もワンオフで水密化されている。ホノルル市内の「ダイアモンド・ベーカリー」製クッキーの徳用サイズ容器は、クルーの私物を管理する為に再利用される。フォワード・マスト(船首側のマスト)の基部。この時はクラブクロウ・セイルを装備した状態。
ホクレアとは、1975年にアメリカ合衆国建国200周年(英語版)記念事業の一つとして建造された、航海カヌーである。建造に際しては、ニュージーランドの医師でリモート・オセアニア海域の伝統的航海技術研究の第一人者でもあったデヴィッド・ルイス、ハワイ大学で同じくリモート・オセアニア海域の伝統的航海技術を研究していたベン・フィニー、中国系ハワイ人(日系という説もある)のイラストレーターで郷土史研究家でもあったハーブ・カワイヌイ・カネ、カヌー研究家のトミー・ホームズらが中心となった。1975年から1995年まではポリネシア航海協会が所有し、1995年から2007年まではビショップ博物館が所有していたが、2007年8月22日に所有権は再度ポリネシア航海協会に戻された。
建造直後からハワイ先住民の伝統文化復興運動のシンボルとなっているが、アオテアロア(ニュージーランド)のマオリやクック諸島、仏領ポリネシア、ミクロネシア連邦、日本などからも、航海カヌー操船技術の研修生を受け入れている。また1995年以降はハワイの子供たちの教育プログラムにも頻繁に利用されており、これは現在のホクレアの活動の中心的内容となっている。ハワイ州のState Treasureにも認定されている。
これまでの間に地球4周半分の距離を航海している。 全長約19メートル。2本マスト。帆は建造当初はポリネシアの伝統的なクラブクロウセイルを装備していたが、近年ではジブ付きのラテンセイルを装備していることが多い。しかし2006年11月の改修で再びクラブクロウセイルに換装された。船体はガラス繊維でコーティングされた合板(しばしば1990年に建造された木造船のハワイロアと混同されるが、ホクレアは木造船ではない)。クロスビーム、デッキはオーク積層合板
構造
2007年6月に横浜港に入った際には特例として港内でクラブクロウセイルによる帆走を行った。 クルーは通常2交替の当直に付いており、非番のクルーは左右の船体上に設けられた睡眠区画で休む。睡眠区画は2名による共同使用となる。食事はデッキ上に設置された水密性を持つガスコンロで加熱調理される。船尾には太陽電池が設置されており、船内に電力を供給する。この電力はARGOS ホクレアは建造されてから現在までに大きな仕様の変更を何度も受けている。進水直後のホクレアは左右の船体に数名ずつ漕手を配していたが、これは漕手間のタイミングの同期を取るのが非常に難しかったことと、飛沫を浴びる漕手の体力の消耗が激しかったことから早い段階で断念された。 帆形も1976年のタヒチ航海ではハワイ諸島のペトログリフに描かれたクラブクロウセイルを摸したものであったが、やがてブームの長さを短く、またカーブのRを緩くする方向に帆形が修正され、1990年代からはジブ付きのラテンセイルが基本装備となる(2007年の日本航海の最初の周防大島寄港時にクラブクロウセイルに戻され、横浜まではクラブクロウセイルを使用)。 電子装備も時代が下るごとに強化されてきており、1976年の時点では船尾部分には太陽電池は装備されていない(写真では、現在太陽電池がある場所には篭のようなものが二つ存在しているが、これらが豚と犬の篭であるかどうかははっきりしない)。ARGOSのトラッキング・システムは1980年のタヒチ航海より搭載されたものである。現在は教育プログラムに使用する衛星電話も搭載されている。 また写真から判断すると、布地による睡眠区画も1回目のタヒチ航海の時点では設置されておらず、代わりにラウハラらしきもので出来た小型の日除けがデッキ中央部分に確認出来る。 ホクレアとはハワイ語で「喜びの星」という意味である。h?k?は「星」、le?aは「喜び」を意味する。現在ではうしかい座の「アークトゥルス」と呼ばれている星である。ホクレアは常にハワイ諸島では頭上に来るため、タヒチやマルケサス諸島からハワイ諸島へ航海カヌーがポリネシア航法で来る際には、航法師たちはこの星の高度でハワイ諸島の位置を推測したものと推定されている。
設備
仕様の変遷
名前の由来
ホクレアの主な航海
1976年
ハワイ・タヒチの間を、ミクロネシア連邦から招聘した航法師Paliuwのマウ・ピアイルック (Mau Piailug) を航海長に得て、近代的航法器具を一切用いないまま航海(復路は航法器具を使用)。ただし往路の船内で反乱が発生し、これに失望したマウ・ピアイルックはタヒチ入港前日にタヒチからの帰郷を宣言した。この時、反乱の中心となったのはバッファロー・ケアウラナ、ブギー・カラマ、ビリー・リチャーズの3人で、彼らはタヒチ到着後にハワイに送還された。しかし後に彼らはポリネシア航海協会と和解し、1980年にはホクレアのクルーを招いて盛大なルアウを開催した。なお、この反乱の原因としては先住ハワイ人系クルーと白人系クルーの対立があったとされているが[3]、当時を知る先住ハワイ人系クルーによると、理由は定かでは無いが白人系クルーはきちんとした防寒着を持っていたのに対し、先住ハワイ人系クルーにはそういった装備が支給されていないなど、船上でのクルーの扱いが平等では無かったとされる。