ホイッグ党_(イギリス)
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イギリス政党ホイッグ党
Whigs
風刺画
創設者アントニー・アシュリー=クーパー
成立年月日1678年
前身政党議会派[1]
解散年月日1859年
解散理由党の分裂と改称による
後継政党自由党[1][2]
政治的思想・立場中道[3] - 中道左派[4][5]
ホイッグ主義(英語版)[6]
古典的自由主義[7]
保守自由主義[8][9]
自由主義[2][10][11]
宗教的寛容[12]
議会主権 (en)[13]
シンボル    オレンジ
    バフ
    ブルー
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ホイッグ党(ホイッグとう、英語: Whig Party)は、かつて存在したイギリス政党。後の自由党及び自由民主党の前身にあたる。

ホイッグ党の起こりはイングランドチャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題で、カトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。Whigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。
歴史
王位継承問題

1660年清教徒革命後の王政復古を受けて即位したチャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズの弟ヨーク公ジェームズが目されていた。しかし、国教プロテスタントイングランド国教会であり、カトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。ここで賛成派が反対派を指してWhigと呼んだのがホイッグの始まりである。

Whigはスコットランド語の"whiggamor"から来ており、意味は「謀反人」とか「馬泥棒」と言う意味である。一方の反対派は、賛成派を指してTory、アイルランド語で「ならず者」、「盗賊」と言うあだ名を付けた。これがトーリー党の始まりになった。ホイッグ党の事実上の創設者はシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーで、トーリー党の前身である宮廷党はチャールズ2世の側近であるダンビー伯トマス・オズボーンが作り上げた。ホイッグ党は議会重視と非国教徒の寛容を掲げ、トーリー党は国王尊重と国教会堅持で寛容を認めなかった。

1678年カトリック陰謀事件で反カトリックの風潮が漂い、ジェームズはイングランドから出国、ダンビー伯もフランスルイ14世との密約が発覚してロンドン塔へ投獄、議会はホイッグ党優位となった。ホイッグ党はこれらを背景にチャールズ2世の庶子モンマス公ジェームズ・スコットの嫡子への格上げで次期国王にすることを目論み、ジェームズから王位継承権を剥奪する王位排除法案を議会で通過させようと試みたが、チャールズ2世とトーリー党の反対を受けて認められなかった。1681年にチャールズ2世は議会を解散すると、ホイッグ党の地盤である地方の治安判事と自治都市を切り崩してトーリー派に交替させたためホイッグ党が不利になり、シャフツベリ伯の亡命とライハウス陰謀事件による指導者層の排除でホイッグ党は衰退した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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