ホアキン・グスマン
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ホアキン・グスマン
Joaquin Guzman
2017年撮影
生誕 (1957-04-04) 1957年4月4日(67歳)
メキシコシナロア州ラ・トゥナ
現況仮釈放なしの終身刑ADXフローレンス刑務所に収監中
国籍 メキシコ
別名エル・チャポ(El Chapo)
民族メキシコ人
職業麻薬密売人
雇用者シナロア・カルテル
団体シナロア・カルテル
純資産10億ドル(推定)[1]
身長5フィート6インチ
(168cm)
肩書き最高幹部
前任者ミゲル・アンヘル・フェリックス・ガヤルド(英語版)
後任者イスマエル・サンバダ・ガルシア (エル・マヨ)
敵対者メキシコ軍
連邦警察 (メキシコ)
麻薬取締局
連邦捜査局(FBI)
ティフアナ・カルテル
フアレス・カルテル
ロス・セタス
ハリスコ新世代カルテル
罪名殺人
麻薬密輸
資金洗浄
犯罪者現況終身刑で収監中
配偶者

配偶者(少なくとも4人)

アレハンドリーナ・マリア・サラザール・エルナンデス (1977)

エステラ・ペーニャ(日付不明)

グリセルダ・ロペス・ペレス (1980年代半ば)

エマ・コロネル・アイスプロ(2007 - 現在)

婚約者

スレマ・エルナンデス(死亡)[2]

非婚配偶者4人(推定)
子供15人(推定)
イヴァン・アルヒヴァルド・グスマン・サラザール:別名「エル・チャピト」
ヘスス・アルフレド・グスマン・サラザール:別名「アルフレディロ」
セサル・グスマン・サラザール
アレハンドリーナ・ジセル・グスマン・サラザール
エドガル・グスマン・ロペス (†)
オビディオ・グスマン:別名「エル・ラトン」
ホアキン・グスマン・ロペス:別名「エル・グエロ」
グリセルダ・グアダルーペ・グスマン・ロペス
マリア・ホアキナ・グスマン・コロネル
エマリ・グアダルーペ・グスマン・コロネル
ローザ・イセラ・グスマン・オルティス
キム・グスマン・ドルチライシャ・グスマン
ビクトル・アラエル・ヘルナンデス・ロペス・ルベンシト
親父親:エミリオ・グスマン・バスティージョス
母親:マリア・コンスエロ・ロエラ・ペレス
署名

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ホアキン・アルチバルド・グスマン・ロエーラ(スペイン語:Joaquin Archivaldo Guzman Loera、1957年4月4日 - )は、メキシコ麻薬密売・密輸組織シナロア・カルテルの最高幹部。エル・チャポ(スペイン語: El Chapo、「ちび」の意)の通称で知られる。2023年現在はアメリカ合衆国コロラド州にあるADXフローレンス刑務所にて終身刑で服役中。

フォーブス』は、グスマンを「史上最大の麻薬王」、アメリカ合衆国連邦政府は「地球上で最も残酷で危険で恐ろしい男」、アメリカ麻薬取締局(DEA)は「パブロ・エスコバルに匹敵する影響力を持つ麻薬界のゴッドファーザー」と称している。2015年には、シカゴ犯罪委員会より「公衆の敵ナンバーワン」に指名された。
来歴
生い立ち

シナロア州バディラグアト郡(英語版)の小村であるラ・トゥナ出身。

生家は貧農であり、最寄りの学校から100キロメートルも離れている田舎で育った。教師は月に数回家を訪ねてグスマンに教育を施したが、ギャンブルと女で身を持ち崩した父親に代わり、早くから長男であるグスマンは教育を受ける機会を放棄し、産業がないこの地域で農民がよく栽培しているマリファナケシの実を4人のいとこと共に収穫して売り歩き、家族を支えたという。

やがて、だらしない父に愛想を尽かしたグスマンは、実家を出て祖父と暮らしながらバディラグアトを出る機会をうかがい、20歳ごろに伯父が密売業者を務める麻薬組織に加入して、本格的な犯罪稼業に手を染めるようになっていった。
犯罪組織へ

1970年代にはミゲル・アンヘル・フェリックス・ガジャルド(英語版)がボスを務めるグアダラハラ・カルテルに所属し、後のシナロア・カルテルのボスとなるヘクター・ルイス・パルマ・サラサールの下で働くようになった。当初はアメリカ=メキシコ国境に空輸されてくる麻薬の運び屋兼監視係を務めており、そこでグスマンは麻薬の輸送に1分1秒でも遅れた運び屋を問答無用で射殺する厳格さで知られ、周囲の畏怖及びボスからの信頼を勝ち取っていった。

そして1980年代初頭にはボスの専属運転手を務めるようになり、やがてコロンビアからメキシコに輸送されてくる麻薬の管理を任されるようになった。

また、グアダラハラ・カルテルは1970年代後半から1980年代初頭にかけて、コロンビアとアメリカ=メキシコ国境を結ぶコカインの仲介業者として活動するとともに、カリブ海フロリダ半島を結ぶ麻薬の輸送ルートを新たに開拓して組織を巨大化させていった。

そして、1980年代中頃になると、取引相手であったメデジン・カルテルカリ・カルテル等のコロンビアの麻薬カルテルが、アメリカから支援を受けたコロンビア軍の攻勢を受け、勢力は弱体化した。結果として彼らが得ていた権益をメキシコの麻薬カルテルが引き継ぎ、さらに組織は巨大化した。
ボスの逮捕とカルテルの分割

一方で、DEAもメキシコマフィアの活動を探るべく、エージェントを秘密裏に麻薬組織に送り込むようになった。その中の一人であるキキ・カマレナ(英語版)は、ガジャルドを含むボスとも繋がりを持つようになり、やがて彼から情報提供を受けたメキシコ軍が、1984年11月にグアダラハラ・カルテルが所有する1,000ヘクタールもの広さをもつ大規模なマリファナ畑に奇襲をかけて破壊、80億ドルもの損害を組織に与えた。

カマレナの裏切りに気付いたガジャルドは、1985年2月に白昼堂々彼を拉致し、残忍な拷問にかけた末に殺害した。この事態にアメリカ政府は激怒し、メキシコ当局はカマレナ殺害犯を逮捕すべく大規模な捜査を行い、1989年にガジャルドは逮捕された。

ガジャルドは刑務所から使者を通して幹部をアカプルコに招集させ、グスマンを含む幹部達はカルテルを3つ(ティフアナ・カルテルフアレス・カルテル、シナロア・カルテル)に分割することを決定した。

グスマンはガジャルド逮捕時には偽名を使用して活動していたとされ、麻薬の密輸を行いつつ薬物、武器、金銭を蓄えていた。またマリファナやケシの農園を多数所持し、地域の住民に栽培させていた。

1987年、アメリカ当局がグスマンの捜査を初めて行い、法廷で証言者が語ったところによると、グスマンがシナロア・カルテルの事実上のボスであり、1987年9月19日から1990年5月18日までの間に2トンのマリファナ及び4.7トンのコカインをアメリカに密輸し、約15億ドルの利益を上げていたという。別の捜査資料によると、3年間で31トンのコカインと大量のマリファナの密輸を行い、100億ドルの利益を上げていたという。

また、摘発されるリスクを減少させるために、空路は使用せずに陸路を使用して麻薬をアメリカへ輸送した。持ち込み手段は様々であり、密輸業者に少量の麻薬を持たせて運搬させたり、チリペッパーの缶や消火器に麻薬を隠して列車で運び込んだという。さらにアメリカ=メキシコ国境付近に精巧なトンネルを掘削し、麻薬を運び込むという手口を編み出した[3][4]

代金の回収手段については、スーツケースに現金を詰め込み、賄賂をつかまされた税関の職員が意図的に荷物を通過させてメキシコへ運び込まれたという。
一度目の脱獄

グスマンは1993年グアテマラで逮捕され、殺人及び麻薬密輸の罪で懲役20年の実刑を受け刑務所に収監されていたが、2001年1月に清掃作業車(洗濯物用カート)に隠れて脱獄に成功。78名もの看守に賄賂を配り、グスマン自身が250万ドルの費用を掛けた大掛かりな脱獄であった[5]。この脱獄に関わった看守数名は後に逮捕され刑を受けている。看守の制服を着て堂々と正面玄関から出ていったという説もある。

メキシコ当局、アメリカ当局及びインターポールから指名手配を受けたが、地下に潜伏しつつ麻薬密売組織において活動を活発化、2003年にはライバルであるガルフ・カルテルのボスであるオシエル・カルデナス・ギリェンが逮捕されたことで急速に勢力を拡大、アメリカ合衆国財務省は、グスマンを「世界最大の麻薬組織のボス」と推測している。


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