ペーパークリップ作戦
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ペーパークリップ作戦で渡米したドイツ人科学者達。最前列右から7番目のポケットに手を入れている人物がフォン・ブラウン博士。フォート・ブリスにて。

ペーパークリップ作戦(ペーパークリップさくせん、:Operation Paperclip)は、第二次世界大戦末から終戦直後にかけてアメリカ軍が、ドイツ人の優秀な科学者ドイツからアメリカに連行した一連の作戦のコード名である。ペーパークリップ計画 (Project Paperclip) とも呼ばれる。1945年統合参謀本部に統合諜報対象局 (Joint Intelligence Objectives Agency) が設けられ、この作戦に関する直接的な責任が与えられた[1]
オーゼンベルク・リスト

ドイツ軍需産業界は長期戦に対する準備ができていなかったために独ソ戦の長期化とアメリカの参戦が続き、戦略上不利な立場に立たされた。そこで、ドイツは兵器の研究開発に活かすことができる技術を持つ科学者と技術者を前線部隊から呼び戻す取り組みを1943年春から開始した[2]。それ以前は科学者や技術者の徴兵猶予の制度は存在しなかった。博士号を持つ兵士は徹夜の歩哨任務から解放され、科学分野の修士号を持つ兵士は前線勤務から呼び戻され、数学者は炊事部隊から母国に呼び戻され、そして、精密機械の設計者は軍用トラックの運転手であることをやめた。 ? ディーター・K・フツェル

科学者と技術者を前線から呼び戻すためには、最初にその人材を特定し、特に彼らの忠誠心を推し量るために更に追跡調査を必要とした。その調査結果は国防研究団体(:Wehrforschungsgemeinschaft)代表のハノーファー大学の工学者ヴェルナー・オーゼンベルク (Werner Osenberg) によってまとめられた[3]。これがオーゼンベルク・リストである。1945年3月に、ポーランド人の実験助手はきちんと流されていないトイレで細かく破られたオーゼンベルク・リストの切れ端を見つけた[4]。アメリカ軍の兵器開発部局であるアメリカ陸軍武器科とジェットエンジン開発部門のロンドン支部の責任者であったロバート・B・ステイバー少佐は、尋問すべきドイツ人科学者のリスト(ブラック・リスト)をまとめるためにオーゼンベルク・リストを用いた。「ブラック・リスト」はコード名であり、そのリストの筆頭には、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンの名前があった[5]
オーバーキャスト作戦

ロケット工学者のみを尋問しようとする当初の計画は、1945年5月22日にステイバー少佐が国防総省に緊急の外電を送った後[4]、「太平洋戦争遂行のために重要」としてドイツ人技術者とその家族を米国に避難させるように変わった[4]。また、そのとき同様に強く求められていたのは、ソビエト連邦にドイツ人技術者の持つノウハウを与えないことであった[6]。アルソス・ミッション(英語版)では、ドイツの核エネルギー計画の頭脳であったヴェルナー・ハイゼンベルクは、「彼の存在は我々にとってドイツ軍10個師団より価値がある。」とさえ言われた[6]

ロケット工学と原子核物理学を専門とする科学者に加え、様々な連合軍のチームがドイツ人の化学戦神経ガス)、軍事医学(航空医学)及びUボート兵器の専門家も探し出そうとしていた。アメリカ海軍は1945年5月にヘルベルト・A・ヴァークナー (Herbert A. Wagner) 博士を獲得していた。ヴァークナー博士は最初にロングアイランドのニューヨークにあるマンションに住居を与えられ[7]1947年に海軍航空ステーション・ポイント・マグー (Naval Air Station Point Mugu) で雇用された。

大部分の科学者はV2ロケットと関係しており、ロケット技術者は最初にドイツ・バイエルン州ランツフートの住宅団地に彼らの家族とともに収容された。オーバーキャスト(曇天)作戦という秘匿名称は1945年7月19日に統合参謀本部によって命名されたが、ランツフートの住宅が通称「キャンプ・オーバーキャスト」と公然に使われていたため、秘匿名称をペーパークリップ作戦に変更された[5][4]1958年までには、ペーパークリップ作戦の多くの側面が一般に知るところとなった。同作戦については、フォン・ブラウンに関するタイム誌記事でも公然と言及されている[8]

なお、つれて来られた科学者の中にはシューマン共鳴で広く名を知られることになるヴィンフリート・オットー・シューマン博士(ブリル協会の科学部門の責任者でSSのE-4セクションとの共同で特殊な航空機の開発に関わっていたと伝えられる人物)も含まれる。
科学者達のその後フォン・ブラウンを筆頭とするロケット工学者チーム。写真中央右寄りの軍服の人物がアメリカ陸軍弾道ミサイル局 (ABMA) の責任者ジョン・B・メダリス少将。フォン・ブラウンはメダリスの向かって左にいる(1959年秋頃)。フォン・ブラウンのロケット工学者チームの議論の様子。机の向こう側、写真中央の人物がフォン・ブラウン(1961年頃)。

1945年8月の初めに、アメリカ陸軍武器科のロケット開発部長であったオルガー・N・トフトイ大佐は、ロケット工学者達に最初の1年契約を申し入れた。127人の科学者は、トフトイが彼らの家族の面倒を見ることを約束したあと、申し入れを受け入れた。

戦が1945年8月に終結したがその後もプロジェクトは継続され、同年9月に、最初のグループとしてヴェルナー・フォン・ブラウン、エーリッヒ・W・ノイベルト (Erich W. Neubert) 、テオドール・A・ポッペル (Theodor A. Poppel) 、アウグスト・シュルツ (August Schultze) 、エーバーハルト・F・M・リース (Eberhard F. M. Rees) 、ヴィルヘルム・ユンゲルト (Wilhelm Jungert) 、及びヴァルター・シュヴィデッツキー (Walter Schwidetzky) の7人のロケット工学者がドイツからアメリカのフォート・ストロングに到着した[4]。ロケット工学者達は最終的に、アメリカ陸軍省特別職員としてホワイトサンズ性能試験場でのロケット試験のためにテキサス州フォート・ブリスに到達した[2]

1950年前半、科学者達はメキシコから合法的にアメリカに入国し、そこのアメリカ領事館ビザが発行されたが、このとき若干の「ペーパークリップ・スペシャリスト」に法的(制限が課された)身分が与えられ、後の10年にわたって一部の科学者の戦時中の活動が調査された[5][9]。アルトゥーア・ルドルフはV2ロケット製造工場のあったノルトハウゼンのドーラ強制収容所 (Mittelbau Dora) と関係し、ゲーリングの航空省航空医学研究所長フーベルトゥス・シュトルクホルトは海上に不時着したパイロットを助けるために、また、高高度を飛行する爆撃機パイロットに対する影響を研究する人体実験に関与していた。

86人の航空学の専門家はライト・フィールドに移され、それはラスティ作戦の下で航空機その他の器材を得もした[10]

アメリカ陸軍通信処は24人の専門家を雇用した-物理学博士のゲオルク・ゴウバウ、ギュンター・グットヴァイン、ゲオルグ・ハス、ホルスト・ケデスディ及びクルト・レフォフェック、物理化学者のルドルフ・ブリル教授、エルンスト・バールス博士及びエーバーハート・ボス博士、地球物理学博士のヘルムート・ヴァイクマン、技術光学博士のゲルハルト・シュヴェシンガー、そして電子工学博士のエードアルトゲルバー、リヒャルト・グエンターとハンス・ツィーグラーを含んだ ⇒[1]


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