ペーチ
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この項目では、ハンガリーの都市について説明しています。コソボの都市については「ペヤ」を、暖炉・オーブンについては「ペチカ」をご覧ください。

ペーチ
Pecs


ペーチテレビ塔、モスク、大聖堂、国立劇場、ニーケー


市旗市章

位置

ペーチの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度4分16.5秒 東経18度13分59.2秒 / 北緯46.071250度 東経18.233111度 / 46.071250; 18.233111
行政
 ハンガリー
  バラニャ県
 市ペーチ
市長Pava Zsolt
地理
面積 
  市域162.61 km2
標高160 m
人口
人口(2007年現在)
  市域15万6649人
    人口密度  962.83人/km2
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号7600-7636
市外局番72
公式ウェブサイト : ⇒http://www.pecs.hu/

ペーチ(ハンガリー語: Pecs  listen[ヘルプ/ファイル])は、ハンガリーバラニャ県の県都である。

ラテン語名クィンクェ・エックレシエー (Quinque Ecclesiae)、クロアチア語名 Pe?uh、ドイツ語名フュンフキルヘン (Funfkirchen)、セルビア語名 Печу? Pe?uj、トルコ語名 Pecuy。

国内第5位の人口を持つ。ペーチは、エッセンイスタンブールと同時に2010年度の欧州文化首都に選ばれた。
市名の由来

古代ローマ帝国の領土となった頃の名前は、ソピアナエ(ソピアネ、Sopianae)といった。湿原を表すケルト語sopからきている。

871年、中世都市として最初に記載されたのは、クインクエ・バシリカエ(5つの聖堂)の名前であった。実際に市内には教会が建設されており、建設者らは5つの古いキリスト教礼拝堂から資材を転用していた。のちのラテン語文献では、市はクインクエ・エックレシエ(5つの教会)と記載された。ドイツ語の市名フュンフキルヒェン(Funfkirchen)とスロバキア語のPa?kostolieは、どちらもこの市名をそれぞれの原語に訳したものである。

ペーチの名前は1235年の文献に登場し、Pechyutという綴りである(現在の綴りに直すとpecsi ut、ペーチから、という意味)。ペーチという名はスラヴ語に語源があり、音声学上5かかまどを意味する(コソボには同じ名前のペーチという町がある)。別のハンガリーの都市、ペシュト(現在のブダペストの一部)と同じ語源と考えられる。
歴史
古代ローマと中世初期の都市

古代からペーチ一帯には定住の跡が見られ、考古学上最古の定住の証拠は6,000年前からとなる。ローマ人がやってくる前、ケルト人が住んでいた。ハンガリー西部がローマ帝国の属州パンノニアになると、2世紀初頭にローマ人は現在のペーチの場所にソピアナエという名のワイン生産植民地を数カ所建設した。ローマ時代の用水路の一部が今も見られる。属州パンノニアが4つの行政区に分割されると、ソピアナエはヴァレリナエと名付けられた区の首都となった。

4世紀の初頭、ソピアナエは重要なキリスト教徒の都市となっていた。この時代に初期キリスト教徒の墓地が作られ、「ペーチ(ソピアナエ)の初期キリスト教墓所」の名で現在UNESCO世界遺産となっている。

4世紀終わりには、異民族とフン族の侵攻によってこの一帯のローマ支配が弱体化した。カール大帝がやってきたとき、この地域を支配していたのはアヴァール族スラヴ人だった。ペーチ周辺を征服したシャルルマーニュは、神聖ローマ帝国に併合した。この地域はザルツブルク司教座に属していた。

871年にザルツブルクで書かれた文書には、クインクエ・バシリカエの名前で中世初期の都市が初めて記載された。
中世のマジャル人都市

マジャル人のハンガリー征服後(およそ9世紀終わりから10世紀初頭にかけて)、州(comitatus)の首都は、ペーチだけでなく近隣の城バラニャヴァール(バラニャ城)も含むバラニャ州(コミタトゥス・バラニャ、comitatus Balanya)が建設された。しかしペーチは、重要な信仰の中心地で司教座のある地であった。ラテン語の記録では、市はクインクエ・エックレシアエ(Quinque Ecclesiae)と記載されている。

街の北端部に建立された聖堂は、ハンガリーのキリスト教会としてはもっとも古いものに属する。1064年シャラモン王が従弟ゲーザ(のちのゲーザ1世)と和平を結ぶと、彼らはペーチで復活祭を祝った。そのすぐ後に聖堂が焼け落ちた。その後同じ位置に再建された聖堂は増改築を繰り返し、オスマン帝国支配時には破壊された。現在のものは19世紀末に改築されたネオロマネスク様式の巨大な建物である。地下には11世紀に建てられた礼拝堂が残っている。

いくつかの修道会がペーチへ定住した。ベネディクト会1076年に初めてやってきた。1181年、市内には既に病院が建っていた。国内最初のドミニコ会修道院が、1238年にペーチに建てられた。

ペーチ司教ヴィルヘルムの助言を受け、ラヨシュ1世は1367年にペーチに大学を建てた。ハンガリー初の大学である。創立文書はウィーン大学の創立文書と一語一語同一であり、大学は神学以外の全ての芸術と科学を教えることを是としていた。

1459年、ハンガリーで最も重要な中世の詩人ヤヌス・パンノニウスがペーチ司教となった。彼はペーチの文化的重要性を強化した。
オスマン帝国支配「オスマン帝国領ハンガリー」も参照

1526年オスマン帝国軍がラヨシュ2世軍を退けたモハーチの戦いの後、スレイマン1世の軍がペーチを占領し略奪した。国の大半をオスマン帝国に占領されただけでなく、ハンガリー王に誰がなるべきかで国内の世論も割れてしまった。ある一派はローマ王フェルディナント1世(のちのローマ皇帝。ラヨシュ2世の姉アンナ・ヤギエロを妃とする)を推し、ある一派はハンガリー貴族サポヤイ・ヤーノシュセーケシュフェヘールヴァールで戴冠させた。ペーチ市民はフェルディナント1世を支持したが、バランヤ県の残りはサポヤイ・ヤーノシュを支持した。1527年夏、フェルディナント1世はサポヤイ軍を下し、11月3日ハンガリー王として戴冠した。フェルディナントは自分を支持してくれた都市を贔屓し、ペーチは納税を免除された。ペーチは再建され要塞化された。

1529年、再度オスマン軍がペーチを攻略し、帝都ウィーンへ進軍した。オスマン軍は、ペーチを同盟者サポヤイ・ヤーノシュへ与えた。1540年にサポヤイが死んだ。1541年、オスマン帝国軍はブダ城を占領、そしてサポヤイの未亡人でポーランド王女であるイザベラへ、戦略上の要地ペーチをオスマン帝国へ与えるよう命じた。ペーチ市民はオスマン帝国軍から都市を防御し、フェルディナントへの忠誠を誓った。皇帝はさらなるオスマン軍の攻撃から市を防衛し助けようとしたが、助言者らがペーチの代わりにセーケーシュフェヘールヴァールとエステルゴムにさらに的を絞るべきだと彼を説き伏せた。


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