ペン・セントラル鉄道
[Wikipedia|▼Menu]

ペン・セントラル鉄道
Penn Central Transportation Company

報告記号PC
路線範囲シカゴ、セントルイスからニューヨーク、ボストン、ワシントンD.C.
運行1968年–1976年
前身ペンシルバニア鉄道ニューヨーク・セントラル鉄道ニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道
後継アムトラックコンレール
軌間1,435 mm標準軌
本社ペンシルベニア州フィラデルフィア
テンプレートを表示

ペン・セントラル鉄道、あるいはペン・セントラル・トランスポーテーション・カンパニー(英語: Penn Central Transportation Company、報告記号はPC)、略して単にペン・セントラルは、1968年から1976年まで営業していたアメリカ合衆国鉄道事業者である。1968年2月1日付で、ペンシルバニア鉄道ニューヨーク・セントラル鉄道が合併して発足した。さらに州際通商委員会の要求で1969年1月1日にニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道も合併に加わった。合併したペン・セントラル鉄道の本社は、ペンシルベニア州フィラデルフィアに置かれていた。
合併の背景

ペン・セントラル鉄道は、1960年代末に合併元3社が直面していた問題への対処として発足した。これらの会社の営業範囲であるアメリカ合衆国北東部は、アメリカ合衆国でももっとも人口密度の高い地域である。北アメリカの他の地域の鉄道は、収入のうち高い割合を石炭、木材、紙、鉄鉱石などの物品の長距離輸送から得ていたのに対して、北東部の鉄道は伝統的に通勤旅客輸送、都市間旅客輸送、鉄道小包輸送、小口混載貨物輸送、果物や乳製品などの生鮮品・日用品輸送など、多くの種類の輸送に頼っていた。

こうした労働集約的な短距離輸送は、旅客については自動車バス、貨物についてはトラックとの競争に弱く、高速道路の整備された地区では特に脆弱となっていた。1956年にアメリカ合衆国議会連邦補助高速道路法を可決し、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領がこれに署名した。この法律では壮大な州間高速道路網の建設を認可し、トラック産業の発展を後押しすることになった[1]

もう1つの重要な問題としては、ニューヨーク・セントラル鉄道とペンシルバニア鉄道の両社とも、市場の状況に対応する能力を欠いていたということがあった。この当時の鉄道産業は州際通商委員会によって厳しく規制されており、旅客や貨物の運賃を柔軟に変えることができなかった。このため、支出削減だけが収益性を改善する唯一の手段であった。政府の規制と労働組合との労働協約は、費用の削減余地を極めて限られたものとしていた。合併こそが、この難局を切り抜ける方法だと考えられた。
合併後ペン・セントラル鉄道の機関車4801号および4800号、かつてのペンシルバニア鉄道GG1形電気機関車がニュージャージー州エリザベスで貨物列車を牽引している、1975年12月

結果的に判明するように、合併して発足したペン・セントラル鉄道は、合併元の鉄道会社よりもわずかにましな状態となっただけであった。合併の実行計画が策定されたが、これは結局実行されなかった。営業や人員・設備を統合しようとする試みは、競争的な企業文化や互換性のないコンピューターシステム、労働協約などにより、うまくいかなかった[2]:233-234。合併元の鉄道会社から引き継いだものであったが、線路の状態は劣化し、列車は速度を落として運行しなければならなかった。これは貨物輸送の遅れと人員の超過勤務につながった。結果として運行費用は急増した。脱線と事故は、特に中西部において頻繁に発生するようになった[3]

ペン・セントラル鉄道経営陣は、ペン・セントラル・カンパニーという持株会社を設立し、経営難に陥っている企業を不動産やその他の鉄道以外の事業に多角化しようとしたが、経済の停滞する中では鉄道事業部門に比べてわずかに良い成績を出しただけであった。これに加えて、多角化した事業のために経営陣の関心が中核事業の問題点からそれてしまった。さらに悪いことに、成功しているという幻想を生み出すために、経営陣は株主に配当を払うことを主張した。会社は営業を続けるためにさらに借り入れをする必要があった。借入に対する利子は耐えられない重荷となっていた。

1968年にはメイン州から出荷されたジャガイモのほとんどは、ペン・セントラル鉄道のセルカーク操車場で腐ってしまった。荷主は二度と鉄道で出荷しないと断言し、これはバンゴア・アンド・アルーストック鉄道(英語版)の経営悪化につながった。
経営破綻とコンレールへの合併

ペン・セントラル鉄道はわずか2年の営業の後、1970年6月21日に経営破綻し、アメリカの金融システムに衝撃を与えることになった[3]。その当時、アメリカの歴史上最大の企業倒産であった。ペン・セントラル鉄道は倒産したが、その親会社のペン・セントラル・カンパニーは存続することができた[4]

ペン・セントラル鉄道の経営破綻は、アメリカ合衆国において民営の長距離旅客鉄道事業に最終的な打撃を与えた。経営難の会社は州際通商委員会に対して、残されている旅客輸送のほとんどを廃止する提案を行い、関連する鉄道会社にも同様の動きが波及した。1971年には合衆国議会は政府出資のアムトラックを発足させ、ペン・セントラル鉄道やその他のアメリカ合衆国の鉄道会社の線路上で旅客輸送を担当することになった。

1973年の地域鉄道再生法に基づき、ペン・セントラル鉄道は他の東部鉄道5社と合併しコンレールとなった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef