ペンブルック伯
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ペンブルック伯
Earldom of Pembroke

ハーバート家の紋章 (第10期ペンブルック伯)Per pale azure and gules, three lions rampant argent[1]
創設時期1138年
創設者スティーブン王
貴族イングランド貴族
初代ギルバート・ド・クレア(英語版)
現所有者ウィリアム・ハーバート(英語版)
相続人レジナルド・ヘンリー・マイケル・ハーバート
相続資格嫡出の男性相続人
付随称号モンゴメリー伯(英語版)
グラモーガン州のハーバート・オブ・カーディフ男爵
ケント州シェピー島ハーバート・オブ・シューランド男爵
ウィルト州リーのハーバート・オブ・リー男爵(英語版) (1861年)

ペンブルック伯(: Earl of Pembroke)は、イングランドの伯爵位。スティーブン王により創設され、ペンブルック伯爵領には、ウェールズペンブルック城などが存する。幾度か家系が断絶する度に伯爵位が再創設され、初代伯爵から世代が数え直されている。

1533年9月1日には、ヘンリー8世が後に自身の妃となるアン・ブーリンをペンブルック侯爵夫人に叙任しており、彼女は1代限りの名誉を得た。というのも、ヘンリー8世の大叔父ジャスパー・テューダーがペンブルック伯であり、父ヘンリー7世ペンブルックで生まれていたからである。

現在のペンブルック伯は1605年からモンゴメリー伯爵(英語版)を兼ねるようになっている。第10期第2代ペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)の次男フィリップが第4代ペンブルック伯を継承する前にモンゴメリー伯に叙任されていたからである。その他にも付属的にグラモーガン州カーディフのハーバート・オブ・カーディフ男爵(1551年)、ケント州シェピー島におけるシューランドのハーバート・オブ・シューランド男爵(1605年)、ウィルト州リーのハーバート・オブ・リー男爵の称号(1861年)を保有している。

連合王国貴族だったハーバート・オブ・リー男爵(英語版)を除き、全てのペンブルック伯はイングランド貴族である。

一族のカントリーハウスウィルトシャーにある。
1911年のブリタニカ百科事典による歴史説明

ペンブルック伯爵の称号は、イギリスの幾つかの家系によって受け継がれてきており、権威と尊厳ある伯爵領が爵位に付属してきた。1138年、スティーブン王によってギルバート・フィッツリチャードの息子ギルバート・ド・クレア(英語版)が叙任された時、ペンブルック伯爵の最初の世代が始まった。ギルバートは他に現在のチェプストーにあたるストリギル(土地台帳の上ではEstrighoiel)の領主でもあった。

1141年におこったリンカーンの戦いで、ギルバートはスティーブン側について戦ったが、この戦いでスティーブンが敗北すると、マティルダ王女側に鞍替えした。しかし、スティーブン王が王座を取り戻すとまた彼に従うことにした。また、ヘンリー1世の愛人にしてレスター伯ロバート・ボーモントの娘イザベルと結婚している。
第1期:クレア家(1138年 - 1220年)

初代 ギルバート・ド・クレア
(英語版) (1100年 - 1147年)

第2代 リチャード・ド・クレア(英語版) (1130年 - 1176年)

第3代 ギルバート・ド・クレア (1173年 - 1185年)

第4代 イザベル・ド・クレア (1172年 - 1220年)

ギルバートの息子リチャード・フィッツギルバート(英語版)は「ストロングボウ」(強弓)と呼ばれ、父と同様スティーブン王に仕えた。この為プランタジネット朝(アンジュー家)始祖でスティーブン亡き後イングランド王に即位したヘンリー2世から疎まれ、ギルバートが1148年に死去した際、ヘンリー2世はリチャードがペンブルック伯位を継承することを拒否し、わずかにストリギルの支配権のみ認めたようである。

ヘンリー2世に相続権を奪われ負債が溜まったリチャードは、1168年に元の権利を取り戻す機会を得ることができた。この年、彼は当時王国を追放されていたレンスター王ダーモット・マクマロー(英語版)の支持を得てアイルランド遠征軍を率いる役目に選任された。1170年にリチャードは自ら進軍しウォーターフォードダブリンを攻略、ダーモットの娘イーファと結婚した。これによってダーモットが同年に死去した際、リチャードはレンスター王位継承を主張している。ヘンリー2世は彼の権力を恐れたため、同年にリチャードから領地を奪いとり、1171年アイルランドへ攻め入ると権力を掌握した。1173年、ヘンリー2世の息子らが反乱を起こした際、リチャードはアイルランドにおける支持と権力を得るために帰還、3年後の1176年にアイルランドの有力者と激しい戦いの末に死去した。

リチャードが死去した時、息子のギルバートは未成年であり、ペンブルック伯位を正式に継承しないまま1185年に死去した。

ギルバートが死ぬとその姉のイザベルが自分の権利として、1220年に死去するまでペンブルック伯爵夫人(女伯爵)となった。父、弟の伯位継承に問題があるわけだから、彼女は初代伯爵である祖父のギルバート以後、最初にペンブルック伯位を継承したともいえる。そうすると、イザベルを第4代ではなく第2代伯爵夫人として計算するべきであるともいえる。いずれにせよ、伯爵位は彼女の夫にしてジョン・ザ・マーシャルとソールズベリー伯パトリックの甥で姉妹シビルの息子サー・ウィリアム・マーシャルに継承された。
第2期:マーシャル家(1189年 - 1245年)

初代
ウィリアム・マーシャル(1146年 - 1219年)

第2代 ウィリアム・マーシャル (1190年 - 1231年)

第3代 リチャード・マーシャル(英語版)(1191年頃 - 1234年)

第4代 ギルバート・マーシャル(英語版)(1194年 - 1241年)

第5代 ウォルター・マーシャル(英語版)(1196年頃 - 1245年)

第6代 アンセル・マーシャル(英語版)(1198年頃 - 1245年)

1189年8月、43歳であったウィリアム・マーシャルは、キリスト教国家の内で最も偉大な騎士であるとされていたが、リチャード1世によってストリギルおよびペンブルックの女相続人イザベル・ド・クレアと結婚させてもらったことで初代ペンブルック伯爵となることができた。彼は以前、リチャード1世の父親であるヘンリー2世に仕えており、リチャード1世が反乱を起こした際には敵対関係にあったが、リチャード1世は父が彼とイザベルとの結婚を許可していたことを破談にするようなことはしなかった。

ウィリアムはリチャード1世と弟のジョン王に対し忠実に仕え、第一次バロン戦争で造反したイングランド諸侯とフランスから王家を守るために戦い、1215年マグナ・カルタに署名もしている。翌1216年にジョンが死去すると、70歳になったウィリアムは王国の摂政に就き幼いヘンリー3世の保護者となり、造反諸侯とフランス軍を打ち破り、平和を得るため再びマグナ・カルタに署名している。1219年の初めに病にかかり、5月14日レディングの近くにあるカヴァーシャム(英語版)の邸宅で死去すると、摂政の職務はヒューバート・ド・バーが、伯位は5人の息子達が継承した。

ウィリアムの長男で父と同名のウィリアムは第2代ペンブルック伯になり、フランスでヘンリー3世に仕えたほか、司法長官(en)を務めていた1224年から1226年の間、ウェールズとアイルランドでの戦争に関わった。彼の2度目の妻はヘンリー3世の妹エリナーであったが、子供を得ることなく死去した。なお、エリナーは後にシモン・ド・モンフォールと再婚している。

第3代伯爵でウィリアムの弟リチャード(英語版)はヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードと友人であり、同盟も結んでいた。次いで3人の弟ギルバート(英語版)、ウォルター(英語版)、アンセル(英語版)が伯爵になったが、1245年にアンセルが死去するとマーシャル家の男系子孫は断絶した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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