ペンダ
Penda
マーシア王
ウースター大聖堂にあるステンドグラス 、ペンダの死を描いている。
在位626年頃 - 655年
死去655年11月15日
子女ペーダ
ウルフヘレ
エゼルレッド1世
ペンダ(Penda、? - 655年11月15日)は7世紀、七王国時代のマーシアの王(在位:626年頃 - 655年)。マーシアに隆盛をもたらした人物として知られている。またキリスト教がアングロサクソン諸国に広まりつつあった時代にキリスト教に帰依していなかった人物としても知られる。
ペンダは633年のハットフィールド・チェイスの戦いでノーサンブリア王エドウィンを敗死させ、9年後のマザーフィールドの戦いではエドウィンの後継者オスワルドも戦死させ、イングランド中央部に強大な勢力を持つ王となった。さらに彼はイースト・アングリアと戦いこれに勝利、そしてウェセックスに進攻して王チェンワルフを亡命させ、さらにノーサンブリアへ進攻するなど強大な権力を持つ王となった。しかしその13年後の655年、ノーサンブリアに転戦中、ウィンウェドの戦いで戦死した。 この時代の資料は少ない。ペンダに関する資料としては9世紀のウェセックス王国で編纂された『アングロサクソン年代記』、7世紀のノーサンブリアの修道士ベーダ・ヴェネラビリス(以下「ベーダ」と略す)の記した『イングランド教会史』、そして9世紀にネンニウスが記したとされるブリトン人の史書『ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)』がある。 『イングランド教会史』によればペンダは「マーシアの高貴な血筋より出でた最も好戦的な男」と書き記され、633年のエドウィン王の敗北に続いて彼はマーシアを22年間統治、様々な富をもたらしたと伝えている。このベーダの記述を考証した20世紀の歴史家フランク・ステントンは彼が高貴な血筋であった事は間違いなくエドウィン亡き後唯一の王となったのだろうと結論を述べている。 『ブリトン人の歴史』では、彼の統治期間は10年としている。恐らくこれは642年のマザーフィールドの戦いから数えた数字であると思われるが、実際には10年以上の統治期間があった事は認められている。前述のアングロサクソン年代記は統治を30年としており、違いは明らかである。この違いは恐らくペンダに関する資料のどれもがマーシアのものでないからと考えられている。 ベーダの生まれ故郷であるノーサンブリアはペンダの敵国であり、『アングロサクソン年代記』の書かれたウェセックス王国の前身である西サクソンはペンダが王を放逐させ支配下に置いた国である。すなわち現存する3つの資料のうち2つが敵国ないし被征服側の資料である事は留意すべきである。 以下、著述される資料の違いを明確にするために『』で表す事とする。 ペンダはピュバの息子で、その先祖はイチェル、血統を辿ると北欧神話の主神ウォーデンまでさかのぼる事になっている。『アングロサクソン年代記』には以下のように記されている:「ペンダはピュバの子、ピュバはクリュダの子、クリュダはキュネワルドの子、キュネワルドはクネバの子、クネバはイチェルの子イチェルはエオメルの子、エオメルはアンイェルセロウの子、アンイェルセロウはオファの子、オファはウェルムンドの子、ウェルムンドはウィーラァクの子、ウィートラァクはウォーデンの子」 ? アングロサクソン年代記(A写本)、626年 このように血統は神話まで語れる伝承性の強いものではあるが、ペンダの父はピュバ、息子にペーダがいた事は確からしい。『ブリトン人の歴史』によればピュバにはペンダを含む12人の息子がいた事を記しているが、その中でペンダとエオワの存在が際立っている。このエオワのほかにペンダにはコエンワルフ[注釈 1]という兄弟がおり、この血統は後にマーシア王を2人輩出する事となる。 ペンダが王位に登った時期は不明、その経緯も分かっていない。彼の登場した7世紀初頭、隣国ノーサンブリアではエゼルフリス この先王とされるチェルルから彼への王位の交代の経緯、この両者が血縁関係にあったのか、あったのならばどれほど近縁であったのかも明らかでない。しかし12世紀の史家ハンティングドンのヘンリーが語るには、チェルルはピュバの親族であったと言う。また彼と先王チェルルとは違う血筋同士の政敵であった可能性も指摘されている。 『アングロサクソン年代記』の記述を基にすると彼の王位は626年、王位に登った時齢50で、以降30年王を務めたとなっている。ここで書かれる彼の統治期間としての30年は勿論正確な数字ではない。また彼が齢50で王位に登ったとするのも疑わしい。彼の子供との年齢が世代的に合わなくなり、例えば彼の息子とされるウルフヘレが3歳の時にペンダは80歳となってしまう。 年代記のこの記述を現在の歴史家は、ペンダが戦死した時50歳で王位に就いたときは20歳であったと言わんとしていたのではないかと推測している。 『アングロサクソン年代記』の628年の項目に王キュネイルスとクウィチェルムがペンダと戦った記録が見られ、そこではこの戦いで彼らはペンダと「合意に達した」と書かれている。キュネイルスたちを先祖とするウェセックスの資料であるこの記述は控えめに書かれているが、恐らくはペンダが西サクソン勢力に対し勝利を収め、サイレンスターを中心とするセヴァーン川下流域の土地が彼のものとなったのだろうと解釈されている。 この時期に彼がマーシア王であったのかは、年代記と比較する上で非常に重要な研究テーマとなっている。考えられる解釈として以下のことが考えられうる。 またペンダが得たこの土地は、かつてブリトン人の土地で西サクソンのチェウリンが577年に進攻領有したものであった。そして彼が奪った後には小国ウィッチェの支配地となっている事が確認されており、ウィッチェという国は彼によって作られた可能性もある。もちろん根拠として十分な証拠が欠いてはいるが、この小国は大国マーシアの隣国として後世にも存続している。
各資料の記述の比較
初期の記録
出自
登場時期
王位就任の時期
この時点では彼は王位には就いておらず、独立勢力の指導者として西サクソン相手に自らの手で領地を切り取っていた。
この時代のマーシアは単一の王を擁く王国ではなく、部族国家として複数の部族によって分割統治されており、彼はその中の一人に過ぎなかった。
ハットフィールド・チェイスの戦いがノーサンブリアと交戦状態にあった。グゥイネッズの王カドゥアソン
この戦いの模様が『アングロサクソン年代記』の一写本に記されている。それによるとペンダとカドゥアソンはノーサンブリア人の住む土地「全土」を略奪したと記されている。ノーサンブリアを敵とするカドゥアソンは王エドウィン亡き後も戦役を続行していたが、同盟者ペンダのそれ以降の関与は分かっていない。
別の資料としてベーダはエドウィンは「異教徒」どもによって殺されたと記している。この『異教徒』とはペンダ率いるマーシア勢の事を言及しているものとされるが、別の視点からこれは敵となったブリトン系キリスト教徒をほのめかした蔑称であった可能性も否定できない。
いずれにせよ戦争を続行したカドワロンはこの1年後のヘヴンフィールドの戦いで戦死してしまうが、これよりも前にペンダは戦線から撤退していたと思われる。その証拠にベーダはこの戦いにはペンダの名を記しておらず、続いてのデイアラ王国のオスリックが戦死した攻城戦にも彼の名は登場していない。恐らくはハットフィールド・チェイスの戦いでマーシア国内の地位を確立した彼は王位に就き、自らの地位を安泰にするためにノーサンブリアとの戦争から手を引いたものと考えられている。 ヘヴンフィールドの戦いでキャドワロンが死ぬと、戦争が終結状態となりオスワルド
戦間期
ノーサンブリア側からの資料より
このオスワルドの治世では以前のようにマーシアの地位はノーサンブリアの庇護下にあったものと考えられている。ノーサンブリアにとってペンダは油断ならぬ存在であったペンダであったものの、彼本人はノーサンブリアの宗主権を認めていたらしい。しかし彼の力を恐れるオスワルドは以降西サクソン(ウェセックス)との同盟へと動く事になる。このように記述に見られる特色としてペンダがすでにこの時点で潜在的な力をつけていたように書かれてはいるが、このような記述は後年の彼の隆盛を強調するため脚色してある可能性も否定はできない。
オスワルドの治世にペンダはノーサンブリアの先王エドウィンの息子エドフリスを処刑したと記録に残されている。これは「彼本人が誓った宣誓に反した」行為であったと伝えられているが、なぜ彼は先王の息子を殺さねばならなかったかについては以下の憶測がなされている。
黒幕としてオスワルドがペンダに圧力をかけて殺したとする説がある。