ペンシルバニア鉄道
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ペンシルバニア鉄道
Pennsylvania Railroad

1918年時点のペンシルバニア鉄道網
報告記号PRR
路線範囲シカゴ、セントルイスからニューヨーク、ワシントンD.C.
運行1846年–1968年
後継ペン・セントラル鉄道
軌間1,435 mm標準軌
本社ペンシルベニア州フィラデルフィア
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1939年のニューヨーク万国博覧会で展示されるM1形蒸気機関車1939年のニューヨーク万国博覧会で展示されるS1形蒸気機関車

ペンシルバニア鉄道(ペンシルバニアてつどう、英語: Pennsylvania Railroad、報告記号はPRR)は、1846年に設立された、アメリカ合衆国一級鉄道である。本社をペンシルベニア州フィラデルフィアにおき、一般的にペンシー (Pennsy) と呼ばれていた。PRRは、20世紀前半の期間中、アメリカ合衆国において輸送量および収入において最大の鉄道会社で、また一時期は世界で最大の株式公開企業であった。その規模が最大の時期には、約10,000マイル(約16,000 km)の鉄道路線を抱え、1920年代には路線長が近いユニオン・パシフィック鉄道(UP)やアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道(AT&SF)などと比較して貨物の輸送トンマイルにして3倍の輸送量を持っていた。最大のライバルはニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)で、ペンシルバニア鉄道の4分の3ほどの輸送量であった。

その歴史の中で、PRRは少なくとも800の鉄道会社と合併あるいは株式を保有していた[1]。PRRは今でも配当金の最長連続支払い記録を持っており、株主に対して毎年の配当金を100年以上継続して払い続けていた[2]。ある時期には、PRRの予算はアメリカ合衆国の連邦政府の予算より大きかった。また最大の時期には約250,000人の従業員を雇っていた[3]

第二次世界大戦後、自家用車の普及と航空路線の拡大により鉄道需要は減少期に突入した。1946年、PRRは創業以来初めて赤字決算となった。その後も業績は悪化し、設備の更新が困難となり、営業に支障をきたすようになった。1968年にライバルのニューヨーク・セントラル鉄道と合併し、ペン・セントラル鉄道となった。そして政府が保証していた2億ドルの運営資金融資の引き上げなどにより、ペン・セントラル鉄道は1970年6月21日に倒産保護の申請に至った[4]

ペン・セントラル鉄道の鉄道網のうち、存続可能な部分は1976年にコンレールへ移管され国有化された。長距離旅客部門はアムトラックに吸収された。1999年、貨物専業のノーフォーク・サザン鉄道CSXトランスポーテーションの2社はほぼ同じ比率でコンレールを買収し、ペンシルバニア州を横断するかつての本線(英語版)を含めかつてのペンシルベニア鉄道の路線の大半はノーフォーク・サザン鉄道の所有となった。

PRRの社章は、ペンシルベニア州章でもあるキーストーンにPRRの文字を組み合わせたものであった。色が付けられる場合には、明るい赤にシルバーグレイの縁取りと文字になっていた。

「Pennsylvania」は現代日本語では「ペンシルベニア」と表記するのが一般的であるが、当項目では工学分野での慣例を重視し「ペンシルバニア」と表記する。
歴史
本線アムトラックの「ペンシルバニアン」は、かつてのPRRの本線を経由してニューヨークピッツバーグの間を毎日結んでいる

ペンシルバニア州は、メインライン・オブ・パブリックワークス(英語版)の一環として、ハリスバーグピッツバーグを結ぶ鉄道を建設するためにPRRに1846年に路線特許を与えた[5]。ハリスバーグから西へ向かうこの路線は、ペンシルバニア州を横断して鉄道と運河で結ぶ本線(メインライン)の計画を完成させるものであった。

フィラデルフィアの市政府から部分的に出資を受けた資本により、本線の西側の部分の工事は1854年に完成し、フィラデルフィアから州を横断してピッツバーグまでの鉄道の運行が可能となった。1857年にPRRは本線を州から買収した。この路線は今もなおペンシルバニア州を横断する重要な路線となっており、アムトラックのフィラデルフィアとハリスバーグを結ぶ主要路線で、またノーフォーク・サザン鉄道のピッツバーグ支線の一部となっている。この区間には、有名な鉄道史跡であるホースシューカーブが含まれている。また、この本線(メイン・ライン)沿線地帯には旧家や富豪宅が多いことから、「メイン・ライン(en:Philadelphia Main Line)」は富裕層を暗示する俗語にもなった[6]
ニューヨーク - フィラデルフィア - ボルチモア - ワシントン間1857年11月3日時点のPRRの地図1893年のPRRの地図1899年時点の東部の路線網

1860年代初期、PRRはノーザン・セントラル鉄道(英語版)の支配権を得て、コロンビア(英語版)あるいはハリスバーグ接続で、サスケハナ川沿いにメリーランド州ボルチモアまでの路線を得た。

1871年12月1日、PRRはユナイテッド・ニュージャージー鉄道運河を借り受けた。これにはフィラデルフィアからデラウェア川の対岸にあるカムデンから、ニューヨークからラリタン湾(英語版)の対岸にあるサウスアンボイまでを結ぶ当初のカムデン・アンド・アンボイ鉄道の区間や、それより新しいフィラデルフィアからトレントンを経由してニューヨークにより近いジャージーシティまでを結ぶ路線などを含んでいた。フィラデルフィアにおける線路の接続はコネクティング鉄道(英語版)およびジャンクション鉄道(英語版)によって実現した[7]

PRR傘下のボルチモア・アンド・ポトマック鉄道(英語版)は、ボルチモアとワシントンD.C.の間を1872年7月2日に開通させた。この経路では、ボルチモアにおいて市の北側へ向かう路線との乗り継ぎに馬車鉄道を利用する必要があった。1873年6月29日にボルチモアを縦貫してボルチモア・アンド・ポトマックトンネル(英語版)が開通した。PRRは、紛らわしい名前であるがペンシルバニア・エア・ライン (Pennsylvania Air Line) という名前の運行をペンシルベニア州コロンビアとの間でノーザン・セントラル鉄道経由で運行開始した。この経路は従来の経路より54.5マイル (87.5 km) 長かったが、ボルチモアにおける乗換の必要がなかった。ボルチモアのユニオン鉄道(英語版)は、1873年7月24日に開通した。この経路はボルチモアにおける乗換の必要をなくした。PRRは、ユニオン鉄道およびフィラデルフィア・ウィルミントン・アンド・ボルチモア鉄道(英語版)と契約を結んでこの路線を利用することにした。PRRのニューヨークとワシントンD.C.を結ぶ列車は翌日からこの経路を運行し始め、ペンシルバニア・エア・ラインの運行は終了した。1880年代初期には、PRRはフィラデルフィア・ウィルミントン・アンド・ボルチモア鉄道の株の過半を取得した。これによりボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は、フィラデルフィアまでの経路を維持し、そこでレディング鉄道に接続してニューヨークまでの旅客列車「ロイヤル・ブルー」の運行を続けるために、ボルチモア・アンド・フィラデルフィア鉄道(英語版)を建設しなければならなくなった。

1885年にPRRは、ニューヨークからフィラデルフィアを経由してワシントンD.C.までの停車駅の限られた列車の運行を開始した。この列車は「議会特急」(Congressional Limited Express) として知られるようになった。この列車の運行は拡大され、1920年代にはニューヨーク - フィラデルフィア - ワシントンD.C.間の列車を1時間おきに運行するようになった。1950年代初期には、18両のステンレス鋼流線形車両がニューヨーク - ワシントンD.C.間のモーニング・コングレッショナル (Morning Congressional)およびアフタヌーン・コングレッショナル (Afternoon Congressional)、そしてボストン - ワシントンD.C.間のセネター (Senator) に投入された[8][9]


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