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英語: Penzance
コーンウォール語: Pensans
ペンザンスのパノラマ
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人口21,168人 (2001年)
英式座標
ペンザンス(英語: Penzance、[p?n?zans]、コーンウォール語: Pensans、Penzansとも)は、イギリス、イングランドのコーンウォールにあるタウン、行政教区、港である。コーンウォールにある大きな町としてはもっとも西に位置しており[1]、プリマスの西およそ120 km、ロンドンの西南西約500 kmに位置している。マウンツ・ベイ(英語版)の内側に位置し、南東側にイギリス海峡があり、西には漁港のニューリン(英語版)が、北には行政教区のマドロン(英語版)が、東には行政教区のラッジバン(英語版)が隣接している。ペンザンスは温帯気候に属し、グレートブリテン島のほとんどの地域よりも穏やかな気候となっている。
1512年以降多くの勅許を得ており、1614年に独立した都市として設置された[2]。人口は2001年の時点で21,168人である[3]。 ペンザンスは、コーンウォール語で「聖なる岬」(holy headland) という意味で、ペンザンス港となった地の西側の岬に1000年以上前に建っていた大アントニオス教会の位置を示したものである[要出典]。1930年代までは町のシンボルにもこの歴史が反映されており、切断された洗礼者ヨハネの聖なる首 (holy head) が使われていた。今でもペンザンス市長のレガリアや町の中のいくつかの重要なランドマークに見られる。 グレートブリテン島全土からは、緑色岩で作られた先史時代のグループ1として知られる石斧がおよそ400見つかっており、岩石学の分析によりこれは西コーンウォール産であることが分かっている[4]。採石場はまだ確認されていないものの、ペンザンスの海岸からおよそ半マイル沖に沈んだギア (Gear) と呼ばれる岩盤がその地であるかもしれないと指摘されている。グレートブリテン島のあらゆる場所で多くの量が発見されることが、かなりの量の取引が行われていたことを示唆している[5]。ペンザンスにおけるもっとも古い居住の痕跡は青銅器時代のものである。パルステイブ
語源
歴史
中世前期までイギリスのモン・サン・ミッシェルと呼ばれるセント・マイケルズ・マウント
近年に至るまで、ローマ帝国が初期に短期間コーンウォールを支配していたこと以外にはほとんど根拠と言えるものがなかった。ナンスタロン(英語版)にある要塞が西暦54年から80年まで占領されていた。近年カルストック(英語版)にローマ時代の要塞が発見され、またレストーメル(英語版)のノーマン城付近の複合施設跡などから、西暦54年から3 - 4世紀ころまで東コーンウォールをローマが占領していたと暫定的ながら受け止められるようになっており、かつて考古学者が考えていたものよりローマの占領は大規模なものであったことが判明している[8]。今までのところ、ペンザンスにおけるローマ人の証拠は以下の3つだけである。1899年8月に2枚のウェスパシアヌス(在位69年 - 79年)の硬貨がペンザンスの墓地の古い溝の中で発見された。この硬貨は、牛の骨とともに地面から8フィート下に埋まっていた。現在はペンリー・ハウス博物館にある。1934年にアルバートン地区から発見されたものは、コンスタンティヌス1世時代の硬貨とされており、やはり博物館に収められている。2000年頃に30 mmの1枚のセステルティウス硬貨がペンザンスの建物の跡周辺でみつかり、王立コーンウォール協会に贈られた[9]。ポール地区のマラザイアン・マーシュ(英語版)およびケリス(英語版)では大量のローマ時代の硬貨が発見されているが、近くのチョイソースター(英語版)はこの時期ローマに占拠されていたものの、ローマ時代の植民地がこの地域にあったという証拠はない[10]。
ペンウィス地区 (Hundred of Penwith) には古代の中心地コナートン (Connerton) があったが、現在はグウィティアン(英語版)のグウィティアン・トワンズの砂の下に埋もれている。ハンドレッド (Hundred) はサクソン人の行政単位で、さらにティシングス(英語版)に分けられていた[11]。64コーニッシュエーカーの面積があるアルバートン荘園(英語版)は、ペンウィスの2番目に大きなティシングに名前を残している。この荘園にはマドロン、ポール、セント・ベリアン、サンクリードなどの一部が含まれる。
ペンザンスはドゥームズデイ・ブックには記載されていないが、おそらくこの地域も含まれているものと思われる。ドゥームズデイ・ブックによれば、1066年にアルワートン荘園はアルワードが所有していたが、ウィリアム1世の腹違いの兄弟、ロバート(英語版)に奪われたとある。アルワード (Alward) とトン (tun) という、個人名に町や入植地を表す語尾を組み合わせたものは、サクソン人の土地所有権を示している。コーンウォールでは、ヘルストン(英語版)やコナートンのようにトンは荘園の中心地を示している。1066年の所有権の変更は、ある外来領主から他の外来領主への変化であり、アルバートンという名前はペンザンスの西側、セント・ジョンズ・ホールからラリーガン川の西岸の住宅地までの範囲に残っている[5]。 ペンザンス (Pensans) の名前が初めて現れるのは、1284年の巡回裁判の記録簿で[12]、またペンザンスという名前の由来になった教会に関して最初に触れているのは1750年にウィリアム・ボーレイス (William Borlase) が書いた原稿で、「ペンザンスにある古代の教会は、今は魚の貯蔵庫となっている。それは小さく、イエスの母マリアの絵が中にあることを記憶している」[13]とある。
中世