ペンザンスの海賊
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第1幕フィナーレの絵

『ペンザンスの海賊』(英語: The Pirates of Penzance; or, The Slave of Duty)は、アーサー・サリヴァン作曲、ウィリアム・S・ギルバート台本による2幕もののコミックオペラである。1879年12月31日ニューヨークの五番街劇場で初演され、観客からも批評家からも好評であった[1]。ニューヨークで3か月以上のロングランとなった後、ロンドンでは1880年4月3日にオペラ・コミックで初演され、上演回数は363回を数えた。

物語は21歳になったフレデリックが、心優しい海賊たちのもとで行っていた徒弟奉公を終えるところから始まる。フレデリックはスタンリー少将の娘メイベルと出会い、若き2人はすぐ恋に落ちる。しかしながら、フレデリックは自分が2月29日生まれで、手続き上は誕生日が閏年にしかないことを知る。フレデリックの年季奉公の証文には「23回目の誕生日」まで海賊に奉公するということが明記されており、つまりフレデリックはその後63年間徒弟を続けなければならないことがわかった[2]。義理堅いフレデリックの唯一の慰めは、メイベルが愛する彼を忠実に待つと約束してくれたことだった。

『ペンザンスの海賊』はギルバート・アンド・サリヴァンの5作目の共作で、何度もパロディ化された「少将の歌」"Major-General's Song"はここで初めて歌われた。このオペラは1世紀以上にわたり、イギリスではドイリー・カート・オペラ・カンパニーにより、さらに世界中でさまざまなオペラカンパニーやレパートリー劇団によって上演され続けた。現代的な演出としてはジョゼフ・パップによる1981年ブロードウェイ公演があり、787回上演されている。この作品はトニー賞の最優秀リバイバル賞とドラマ・デスク・アワード最優秀ミュージカル賞を受賞し、その後しばしば模倣され、1983年には映画化もされた。『ペンザンスの海賊』は現在でも人気があり、ギルバート・アンド・サリヴァンのオペラとしては『ミカド』や『軍艦ピナフォア(英語版)』と並んで上演回数が多い。
制作1886年の『パック』誌に掲載されたThe Pirate Publisher ? An International Burlesque that has the Longest Run on Record。海賊出版者に作品を盗まれたイギリスの作家のひとりとしてギルバートが登場している。

『ペンザンスの海賊』はギルバート・アンド・サリヴァンのオペラ中で唯一、公式の初演がアメリカ合衆国で行われた。この当時、アメリカの法では海外出身者に対して著作権の保護がなかった。2人の前作である『軍艦ピナフォア』は1878年ロンドンで大成功をおさめたが、その後150ほどのアメリカの劇団がすぐに無認可の上演を行い、しばしばテクストをかなり自由に変更して創作者には使用料を払わなかった[3][4][5]。ギルバートとサリヴァンはコピーされる前にアメリカで自作を初演し、譜面と台本の出版も遅らせることで、オペラに対するさらなる「著作権海賊行為」を防ぎたいと考えた[6]。2人はロンドン公演前に『ペンザンスの海賊』のアメリカ初演を自らブロードウェイで行うことによって直接収益を得ることができ、『ペンザンスの海賊』と『軍艦ピナフォア』のアメリカ巡業公演でも利益をあげることができた[3]。しかしながらギルバート、サリヴァン、プロデューサーのリチャード・ドイリー・カートはそれから数十年、アメリカ合衆国で『ペンザンスの海賊』その他のオペラの上演権を明確に管理しようと努力したものの、うまくいかなかった[7]

海賊に関する物語や芝居は19世紀にはいたるところで見かけることができた[8]ウォルター・スコットの『海賊』(The Pirate、1822)やジェイムズ・フェニモア・クーパーのThe Red Rover(1827)は、颯爽としてロマンティックに美化された海賊のイメージや、悔い改めた海賊という発想を広めるもととなった重要な作品であった[9]。ギルバートもサリヴァンはキャリアの初期にこうした発想をパロディ化していた。サリヴァンは1867年にThe Contrabandistaというタイトルのコミックオペラを書いており、これには山賊につかまって無理矢理その首領にさせられる哀れなイギリス人旅行者が出てくる。ギルバートは海賊や山賊が出てくる面白おかしい作品をいくつか書いている。1876年のギルバートのオペラPrincess Totoでは、タイトルロールのトト姫が山賊の首領につかまえられたがっている。ギルバートはジャック・オッフェンバックの『盗賊』を1871年に翻訳している[9]。『盗賊』同様、『ペンザンスの海賊』は盗みを滑稽にも専門職のキャリアパスとして描いており、徒弟奉公や、仕事道具としてかなてこや護身用棍棒などが出てくる[10]
着想

『軍艦ピナフォア』はロンドンのオペラ・コミックで好評のまま上演を続けていたが、ギルバートはサリヴァンと次のオペラを作り始めたいと考えており、1878年12月に台本にとりかかった[11]1870年に書いた1幕物Our Island Homeの内容を多少再利用することにしたが、この作品には海賊の「首領」であるキャプテン・バングが出てくる。バングは、耳の悪い子守女のせいで誤って海賊のところで徒弟奉公をすることになった。さらにバングは『ペンザンスの海賊』のフレデリック同様、これまで女を見たことがなく、極めて義理堅くて、年季奉公の契約により21回目の誕生日が過ぎて解放されるまで海賊の徒弟だった[12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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