この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年4月)
この項目では、紀元前431年から紀元前404年にかけての戦争について説明しています。紀元前460年から紀元前445年にかけての戦争については「第一次ペロポネソス戦争」をご覧ください。
ペロポネソス戦争
青:ペロポネソス同盟諸都市、赤:デロス同盟諸都市、黄:アケメネス朝
戦争:ペロポネソス戦争
年月日:紀元前431年 - 紀元前404年
場所:古代ギリシア
結果:スパルタの勝利
交戦勢力
スパルタを中心とするペロポネソス同盟
アケメネス朝
シュラクサイ他アテナイを中心とするデロス同盟他
指導者・指揮官
アギス2世
アルキダモス2世
パウサニアス
ブラシダス
プレイストアナクス
リュサンドロス
アルキビアデス
ヘルモクラテス他アルキビアデス
クレオン
デモステネス
ニーキアス
ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう、古希: Πελοποννησιακ?? Π?λεμο?、英: Peloponnesian War、紀元前431年 - 紀元前404年[1])は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。
目次
1 背景
2 経過
2.1 十年戦争
2.2 ニキアスの和約
2.3 第二次戦争
3 影響
3.1 ソクラテスの弁明とアナバシス
3.2 ペルシャ帝国の資金支援
3.3 ボイオティア戦争
3.4 マケドニアの台頭
4 年表
5 戦争の記録
6 脚注
7 出典・参考文献
8 関連項目
背景「ペルシア戦争」、「en:Second Persian invasion of Greece」、「第一次ペロポネソス戦争」、および「30年不戦条約(英語版)」も参照
紀元前435年、コリントス人により建設されたギリシア北西部の植民市ケルキュラ(当時は既にコリントスと離反)を母市とする植民市エピダムノスは打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊し、内部の仲裁と兵隊の援助を母市ケルキュラに求めたがケルキュラ人は何の援助も与えなかった。困窮したエピダムノスはコリントスに救援を要請し、これに応じたコリントスが守備兵と施政官を派遣し植民者の公募を始めると、激昂したケルキュラ人はエピダムノスへ侵攻、エピダムノスを攻囲ののち陥落させ、各地のコリントス植民市に対して略奪を繰り返した。
報復の機会を窺うコリントスの軍備増強を恐れたケルキュラはアテナイに援助を求め、紀元前432年これを遠からず起こるだろう対ペロポネソス同盟戦の戦力増強の好機と見たアテナイが応じて援軍を送り戦闘となった(シュボタの海戦)。翌年、ギリシア北部にあるコリントス人の植民市ポテイダイアがアテナイの武装解除要求を拒否してデロス同盟からの脱退とペロポネソス同盟による保護と加盟を求めた事に関して、アテナイが軍を派遣して包囲、一部のコリントス人が個人的に救援した(ポティダイアの戦い)。これらの事件により、アテナイはコリントスと対立する事になる。
この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。
これらを背景として、勃興する覇権主義勢力と旧来の自治独立のイデオロギー対立がポリス間の権益や帰結闘争と結びついた結果、「デロス同盟対ペロポネソス同盟」という代理戦争的構図が作られ、紀元前432年にペロポネソス同盟会議は、アテナイ軍のペロポネソス同盟市に対する略奪や侵略を和約の破棄と見なし、アテナイとの開戦を決議した。 翌紀元前431年5月、スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍によるアッティカ侵攻が開始された。対するアテナイはペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイとペイラエウス港及び両者を繋ぐ二重城壁の内側へ退避させる篭城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取った。ところが、エジプト・リビア・ペルシャ領・エーゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも発生、市内の治安が乱れ盗賊が横行した、紀元前429年までに市民の約6分の1が病死した。 しかし、海上におけるアテナイ軍の優位は変わらず、紀元前425年のスファクテリアの戦い
経過
十年戦争