ペレ
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「ペレ」のその他の用法については「ペレ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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ペレ

ブラジル代表でのペレ (1970年
名前
本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント
Edson Arantes do Nascimento
愛称ペレ(Pele)
王様(O Rei)
サッカーの王様(O Rei do Futebol)
ラテン文字PELE
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 (1940-10-23) 1940年10月23日
出身地トレス・コラソンエス(英語版)
没年月日 (2022-12-29) 2022年12月29日(82歳没)
身長173cm[1]
体重73kg
選手情報
ポジションFW / MF
利き足右足
ユース
1953-1956 バウルAC(英語版)
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1956-1974 サントス 583 (569)
1975-1977 ニューヨーク・コスモス 64 (37)
通算647 (606)
代表歴
1956-1971[2] ブラジル92 (77[2])

獲得メダル

男子サッカー
 ブラジル
FIFAワールドカップ
1958 スウェーデン
1962 チリ
1970 メキシコ
コパ・アメリカ
1959 アルゼンチン


1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
ペレのサイン

ペレ(Pele[注 1])こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento[注 2]1940年10月23日 - 2022年12月29日)は、ブラジルサッカー選手アフリカ系ブラジル人

サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝(2022年時点で唯一の記録でもある[3])。クラブではサントスFCで活躍し、インターコンチネンタルカップで欧州王者を破り、2度のクラブ世界一を経験。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した[4]。このような実績から「サッカーの王様」(英語: The King of football、ポルトガル語: O Rei do Futebol)[4]と呼ばれており、史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている[5][6][7][8][9][10]
生い立ち
誕生と家族ペレが生まれたトレス・コラソンエスの街並み。

1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスに生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソンにちなんで「エジソン (Edson)」と名付けられた[11]。しかしペレの出生証明書には「Edison」と誤表記されており、現在も訂正されていない[11]

父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ(英語版))はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた[12]。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり[12][13]、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが[14]、膝を痛めて退団した[14][15]。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった[12][注 3]

ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ[18]、父親としては「短気な母のドナ・セレステとは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている[18]
幼少期

1944年に父親がサンパウロ州バウルのクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した[14]。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した[19]。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた[19]。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた[19]

ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが[20][21]、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた[22]。そこで医者が飛行士の腕を持ち上げたりよじったりしていると突然死体が口から血を噴き出し[22]、この光景を見て身動きが取れなくなって吐き気を催すほど大きなショックを受けたペレは[22]、このことが理由で飛行士になる夢を完全に捨てた[22]。やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった[23]

「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bile) 」のファンであったことに由来している[24]。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pele」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エジソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった[24]。また、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」[25]、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた[13][24][26]

1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。同大会でブラジルは優勝候補の本命と目され[27]、1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。

同年7月16日のウルグアイ戦当日は、ペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れ、パーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた[27]。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)、家中は深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった[27]。ペレはこの光景にショックを受け、父やほかの大人たちとともに涙を流したものの[28]、悲しみにくれていた父を励まそうと、悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。 ? ペレ

と約束したという[27][29]。また、自身がサッカー選手になってからは「いつかはきっと、自分の手でウルグアイへのあだ討ちを果たそう」と誓ったという[28]
少年時代

10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた[30]

1954年に地元のバウルAC(英語版)が下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団[31]。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリト(英語版)に出会い指導を受けることになった[32]。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え[33]、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった[34]

その後、ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い、15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った[35]
クラブ経歴
サントスFC
プロデビュー

1956年にサントスに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であった[36]こともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった[37]。月給6000クルゼイロで仮契約を結び[38]、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った[36]。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた[39]。国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった[40][41]。ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが[41]、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した[41][42]1957年サンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ[43]

1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオ(英語版)が欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし[44]、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した[44]。同年にはジトペペジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献(後述)。ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。ペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていたが[45]1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。


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