「ペレ」のその他の用法については「ペレ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はアランテス、第二姓(父方の姓)はド・ナシメントです。
ペレ
ブラジル代表でのペレ (1970年)
名前
本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント
Edson Arantes do Nascimento
愛称ペレ(Pele)
王様(O Rei)
サッカーの王様(O Rei do Futebol)
ラテン文字PELE
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 (1940-10-23) 1940年10月23日
出身地トレス・コラソンエス
獲得メダル
男子サッカー
ブラジル
FIFAワールドカップ
金1958 スウェーデン
金1962 チリ
金1970 メキシコ
コパ・アメリカ
銀1959 アルゼンチン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
ペレのサイン
ペレ(Pele[注 1])こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento[注 2]、1940年10月23日 - 2022年12月29日)は、ブラジルのサッカー選手。アフリカ系ブラジル人。
サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝(2022年時点で唯一の記録でもある[3])。クラブではサントスFCで活躍し、インターコンチネンタルカップで欧州王者を破り、2度のクラブ世界一を経験。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した[4]。このような実績から「サッカーの王様」(英語: The King of football、ポルトガル語: O Rei do Futebol)[4]と呼ばれており、史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている[5][6][7][8][9][10]。
生い立ち
誕生と家族ペレが生まれたトレス・コラソンエスの街並み。
1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスに生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソンにちなんで「エジソン (Edson)」と名付けられた[11]。しかしペレの出生証明書には「Edison」と誤表記されており、現在も訂正されていない[11]。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ(英語版))はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた[12]。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり[12][13]、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが[14]、膝を痛めて退団した[14][15]。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった[12][注 3]。
ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ[18]、父親としては「短気な母のドナ・セレステとは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている[18]。 1944年に父親がサンパウロ州のバウルのクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した[14]。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した[19]。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた[19]。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた[19]。 ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが[20][21]、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた[22]。そこで医者が飛行士の腕を持ち上げたりよじったりしていると突然死体が口から血を噴き出し[22]、この光景を見て身動きが取れなくなって吐き気を催すほど大きなショックを受けたペレは[22]、このことが理由で飛行士になる夢を完全に捨てた[22]。やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった[23]。 「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bile) 」のファンであったことに由来している[24]。
幼少期