ペルピニャン
Perpignan
行政
国 フランス
地域圏 (Region) オクシタニー地域圏
県 (departement) ピレネー=オリアンタル県
(県庁所在地)
郡 (arrondissement)ペルピニャン郡
ペルピニャン(フランス語: Perpignan、カタルーニャ語: Perpinya カタルーニャ語発音: [p?rpi??a] パルピニャー)は、フランス南部、オクシタニー地域圏ピレネー=オリアンタル県の県庁所在地。周辺のコミューンを含め人口約28万人の都市圏を形成している。フランス領カタルーニャ(北カタルーニャ)の中心都市である。 市内をテート川が流れ、川から市内に水を供給する数か所の灌漑用水路がある。 ペルピニャンは、ルシヨン平野 (Plaine du Roussillon
地理
ペイルトルトリヴザルト、ピアボンパ、ヴィルロング=ド=ラ=サランク 地中海性気候であり、冬は温暖で氷点下まで冷え込む日は年4日ほどである。夏は暑くて乾燥するが、北西風トラモンターヌ (en:Tramontane
サンテステーヴ、バオ、ル・ソレールカネ=タン=ルシヨン
ペルピニャン
トゥルージュ、カンシェスポルストル、ヴィルヌーヴ=ド=ラ=ラオカバスタニー、サレイユ、テザ
気候
ペルピニャンの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)12.3
(54.1)13.4
(56.1)15.7
(60.3)17.6
(63.7)21.3
(70.3)25.3
(77.5)28.8
(83.8)28.4
(83.1)25.1
(77.2)20.4
(68.7)15.6
(60.1)13.2
(55.8)19.8
(67.6)
平均最低気温 °C (°F)4.4
(39.9)5.1
(41.2)7.0
(44.6)8.9
(48)12.4
(54.3)16.1
(61)18.8
(65.8)18.8
(65.8)15.6
(60.1)11.9
(53.4)7.6
(45.7)5.3
(41.5)11.0
(51.8)
降水量 mm (inch)50.6
(1.992)44.8
(1.764)43.5
(1.713)55.9
(2.201)50.1
(1.972)28.3
(1.114)17.1
(0.673)32.0
(1.26)47.3
(1.862)89.8
(3.535)58.6
(2.307)54.4
(2.142)572.4
(22.535)
平均降雨日数5.24.74.55.95.54.13.03.94.25.15.15.356.5
平均月間日照時間147.5153.2206.2214.2240.1270.6313.9270.7217.7182.3147.7141.92,506
出典:Meteo France[1]
歴史現存する城壁
ローマ時代から人が定住していた。中世のペルピニャンの建設が始まったのは10世紀初め、927年に初めて地名ヴィラ・ペルピニナルム(villa Perpiniarum)として名が現れた。ルサリョー(フランス語ではルシヨン)伯領の本拠地としてである。1172年、ルサリョー伯ジラルドに嗣子がなくルサリョー伯家が断絶するとバルセロナ伯領に吸収され、アラゴン王国の一部となった。1197年、ペルピニャンは半自治的なコミューンとして法令を獲得した。アラゴン王ハイメ1世がマヨルカ王国を建国した1276年から1344年まで、本土にあるペルピニャンが王国の首都として黄金時代を迎えた。王国はバレアレス諸島、ルサリョー、サルダーニャを領有する他、モンペリエ領主でもあった。布地製造、革製品製造、金細工やその他手の込んだ工芸品の中心地として栄えた。アラゴンに対する十字軍遠征が不成功に終わった1285年、フランス王フィリップ3世は、ペルピニャンで病死した。
1344年、アラゴン王ペドロ4世がマヨルカ王国を併合すると、ペルピニャンは再びバルセロナ伯領となった。1349年にはペルピニャン大学が設立された。数年の後、ペルピニャンは黒死病の流行で人口のおよそ半分を失った。1463年、ルイ11世に攻撃され占領された。1473年、フランス支配に対する暴動は長い包囲戦の後無慈悲に弾圧された。しかし1493年、イタリア侵攻を自由に行うためにシャルル8世はカスティーリャ王国を懐柔しようと、ペルピニャンをフェルナンド2世(カスティーリャ王家であるトラスタマラ家と同族)へ割譲した。
1642年9月、三十年戦争の最中にフランス軍が再び包囲しペルピニャンを占領した。1659年、ピレネー条約によってペルピニャンを含むルサリョーはフランス領となった。 1962年1968年1975年1982年1990年1999年2006年2012年 source=1999年までLdh/EHESS/Cassini[2]、2004年以降INSEE[3][4]
人口統計
83 025102 191106 426111 669105 983105 115115 326120 489
史跡・行事
サン=ジャン=バティスト大聖堂 (Cathedrale Saint-Jean-Baptiste de Perpignan) - 1324年から1509年にかけて建設された。
マヨルカ王国の王城 - 13世紀に建てられた。城壁はルイ11世とシャルル5世によって強化され、17世紀にはルイ14世に仕えた軍人ヴォーバンによって改善が加えられた。市街を取り囲んでいた城壁は、1904年に市域の拡大によって破壊され、現在は一部が残る。
セメーヌ・サント(Semaine Sainte) - カトリック教会の聖週間のこと。Sanchと呼ばれる礼拝行進が行われる。
中世市(Le marche medieval) - 毎年9月に開催。
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