ペルシャ式庭園は、西はスペイン・アンダルシアから、東はインドまで影響を与えた庭園の様式のことである。アルハンブラ宮殿の庭園は、ペルシャ式庭園の哲学とムーア人様式が融合したものであり、インドのタージ・マハルは、ムガル帝国時代に建設された最大規模のペルシャ式庭園である。
2011年、イラン国内の9つの庭園がUNESCOの世界遺産にシリアル・ノミネーションの形で一括して、「ペルシャ式庭園」として登録された。イラン国内の9つの庭園で構成される「ペルシャ式庭園」以前にも、インドの「フマーユーン廟」と「タージ・マハル」、パキスタンの「シャーラマール庭園」が世界遺産に登録されている。 ペルシャ式庭園の起源は、ハカーマニシュ朝時代にさかのぼることが可能である。ハカーマニシュ朝時代には、既に、楽園を意味する「paradise」という考えが、ペルシャ文学を通して、他文化に影響を与えていた。ヘレニズム時代のセレウコス朝の庭園やプトレマイオス朝のアレクサンドリアの庭園にその証拠がある。ゾロアスター教の経典である『アヴェスター』に出てくる単語の「pairida?za-」(古代ペルシャ語:*paridaida-、中世ペルシャ語:*paridaiza- )は、壁を持つ庭園を意味し、古代ギリシア語に伝わり、「παρ?δεισο?」(ラテン文字転写:paradeisos)となった。 古代ギリシア語の「παρ?δεισο?」は後に、ラテン語の「parad?sus」という言葉となり、ヨーロッパ各言語に借用されることとなった。英語の「paradise」、フランス語の「paradis」、ドイツ語の「Paradies」がその代表例である。また、「paradise」という言葉は、セム語系の言語でも借用されることとなった。例えば、アカディア語
起源とコンセプト
言葉の原義が指し示すとおり、ペルシャ式庭園は、壁で囲まれた空間である。その目的は、過去も現在も、人々に休息の場所を与えることである。 ペルシャにおける庭園の歴史は、紀元前4000年代にさかのぼることができる。現在、確認できる最古の庭園は、紀元前500年代に建設されたパサルガダエ庭園
歴史
現在のイスラーム世界における最古の宮殿庭園がシリアのルサーファにある庭園であり、建築はウマイヤ朝時代にさかのぼる[1]。その次に遺跡が現存する2番目に古いのはイラクの十字型庭園サーマッラーで、アッバース朝時代の9世紀半ばに建設された[1]。
サーサーン朝の時代は、ゾロアスター教の最盛期であり、芸術における「水」の役割の重要性が増していった時代であった。この傾向は、それ以後のペルシャ式庭園を建設するにあたり、必要不可欠なものとなり、噴水や池が庭園内に建設されるようになった。
モンゴルによるペルシャ征服は、庭園や建築において大きな影響を与えた。庭園内には、ボタン科やキク属の植物が植えられるようになったのもこのころである。ペルシャ式庭園の建築様式は、帝国内に伝播したが、特に、インドで顕著であった。
インドにペルシャ式庭園をもたらしたその代表格がムガル帝国初代皇帝バーブルである。今日では、手入れの行き届いていないアーグラの庭園であるアラム庭園(英語版)が建設されたのは、建国間もない1528年のことである。このアラム庭園がインドにおけるペルシャ式庭園の最初である。インドにおけるペルシャ式庭園の建設はバーブル以降も続き、第2代皇帝フマーユーンの墓廟であるフマーユーン廟、第5代皇帝シャー・ジャハーンが王妃ムムターズ・マハルのために建設したタージ・マハルに結実した。
一方、ムガル帝国のライバルとして、イランの地に君臨したサファヴィー朝治世下においても、建設が継続された。当時の国際情勢の影響もあり、ペルシャ式庭園には、フランスやロシア、イギリスの庭園の影響が見受けられる。
四分庭園いわゆる四分割の庭園の模式図。模式図では、図の上部に宮殿が水色の部分は、水路や噴水を指し示す。
イスラームによるペルシャ征服以降、審美的なものが重要視されるようになった。その代表例が、庭園を四分割する様式である「チャハルバーグ(英語版)(四分庭園)」(CharbaghまたはChahar Bagh, ペルシア語: ???? ??? chah?r b?gh、ヒンディー語: ??????? ch?rb?gh、ウルドゥー語: ??? ??? ch?r b?gh、「4つの庭園」を意味する) である[2]。