ペルシウム(英語: Pelusium; アラビア語: ??????; コプト語:???????? / ???????? / ???[1])は、古代エジプトのナイルデルタの東端にあった都市。その遺跡はテル・エル=ファラマ(Tell el-Farama[2])と呼ばれ、現在のスエズ運河の港湾都市であるポートサイドの30キロメートル南東にある[3]。ローマ帝国時代ではこの地方の中心であり、キリスト教はこの地に管区大司教を置いていた。 ペルシウムはナイルデルタの海岸線と湿地帯の間にあり、当初は海から2マイル半(4キロメートル)遡った場所にあった。紀元前1世紀にはすでに土砂の堆積によって港が埋まりつつあり、3世紀には地中海の海岸は4マイル(6.5キロメートル)も先に遠ざかっていった[4]。 この地の主産物は亜麻であり、プリニウスの『博物誌』(Natural History xix. 1. s. 3)では「linum Pelusiacum」(ペルシウムの亜麻布)は生産数も多く質も非常に良かったとある。ペルシウムはビールの生産の始まった地でもある[5]。 ペルシウムはエジプトの東の国境に建つ、非常に強固な要塞都市でもあり、シリア・パレスチナ方面からの侵入や地中海からの侵入からエジプトを守ってきた。そのため、エジプトに侵入した軍隊の最初の標的でもあり、多くの野戦や包囲戦がペルシウムの城壁の外で起こった。 ペルシウムは下エジプト最東端の大きな街であり、ナイル川の一番東の分流の岸辺に建つことから、ナイルデルタの一番東の河口は「ペルシウムの入り口」(Ostium Pelusiacum)と呼ばれていた。大プリニウスはアラビアとの境界を説明する際にペルシウムに言及する。「ペルシウムから65マイルのラス・ストラキ(Ras Straki)がエジプトとアラビアの境界である。そしてセルボニスの湖が見えてくるあたりからエドムとパレスチナが始まる。この湖は…今は沼地となっている」[7] 。1世紀の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、『ユダヤ戦記』で、ペルシウムはナイル川の分流のうちの一つの河口にあると書いている[8]。 ラテン語の「ペルシウム」はギリシャ語での地名に由来する。古代エジプト語ではセナ(Sena)やペル=アムン(Per-Amun, アメン神の家)[9]とも呼ばれた。コプト語ではパラモウン(????????; Paramoun)と呼ばれている。ギリシャ語ではペルシオン(Pelousion; Πηλο?σιον)またはサイエン(Saien; Σα?ν)と呼ばれた。カルデア語やヘブライ語ではシン(Sin; ヘブライ語: ?????))、アラム語ではセヤン(Seyan)と呼ばれた。近代のエジプト・アラビア語ではテル・エル=ファラマと呼ばれる遺丘になっている[1][6]。辞書編纂者のウィリアム・スミスによれば、旧約聖書エゼキエル書でエジプトに対する神の怒りが描かれる部分にある「エジプトの砦シン」(30章15)という地名はペルシウムを指す。スミスはエジプト語とギリシャ語の「ペレモウン」という地名は、「泥の家」を指すのではないかと推測している[4]。
位置
地名
または
または
歴史フランスの画家ポール=マリー・レノワ(Paul-Marie Lenoir, 1843-1881)による『ペルシウムの戦いでのカンビュセス王』(1872年制作)。「カンビュセス王はエジプトの神聖な生き物である猫を盾にして戦った」という伝説をもとにしている
紀元前373年には、アケメネス朝のフリュギアのサトラップであるファルナバゾスと、アテナイの将軍イフィクラテースの連合軍がペルシウムの前に出現したが、戦わずに退却していった。エジプト第30王朝のネクタネボ1世はペルシウム周辺の土地を水没させ、航行可能な水路を封鎖することによりエジプトを守った (シケリアのディオドロス xv. 42; コルネリウス・ネポス, Iphicrates c. 5.)。しかし紀元前343年、ペルシウムは再度アケメネス朝に攻められ、陥落した(ペルシウムの戦い(英語版))。ペルシウムは5千人のギリシャ人傭兵に守られており、緒戦ではペルシャ軍の中のテーバイ兵の軽率な攻撃もあってエジプト側が有利に戦ったが、ネクタネボ2世による早まった用兵によりエジプト側は撃破され、ペルシウムは降伏し、アケメネス朝がエジプト第30王朝を滅ぼすことにつながった (シケリアのディオドロス xvi. 43.)。
紀元前333年、ペルシウムはアレクサンドロス3世の前に降伏した。アレクサンドロスはペルシウムに兵営を置いた (アッリアノス, アレクサンドロス東征記 iii. 1, seq.; クイントス・クルティウス・ルフス iv. 33.)。
紀元前173年、セレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスは、エジプトのプトレマイオス朝のプトレマイオス6世をペルシウムの城壁下に破った。ペルシウムはセレウコス朝の支配下に置かれ、セレウコス朝がエジプトから退却した後もペルシウムはセレウコス朝が確保した。セレウコス朝の崩壊後はプトレマイオス朝がペルシウムを回復した。
紀元前55年、共和政ローマのプロコンスル(前執政官)であるアウルス・ガビニウスは、プトレマイオス12世をプトレマイオス朝のファラオに復位させるためエジプトに侵入した。ガビニウスの将軍であったマルクス・アントニウスはペルシウムでエジプト軍を破り、自分のものとした。プトレマイオス12世はペルシウム人たちを殺そうとしたが、その試みはマルクス・アントニウスに阻まれた (プルタルコス Anton. c. 3; ワレリウス・マキシムス. ix. 1.)。紀元前48年、ローマ内戦でガイウス・ユリウス・カエサルに敗北したグナエウス・ポンペイウスはエジプトに逃れたが、ペルシウムで暗殺された。
501年、東ローマ帝国領のペルシウムはサーサーン朝ペルシャ帝国の侵入により荒廃した (アレクサンドリアのエウティキウス, Annal.)。