ペルシア文学
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ペルシア文学(ぺるしあぶんがく、ペルシア語: ?????? ?????‎)はペルシア語で書かれた文学を言う。ここでのペルシア語とは、主として、アラビア文字表記の近世ペルシア語を指す。ペルシア文学というと、主にこの近世ペルシア語を母体として、現在のイラン、中央アジアの一部、アフガニスタン、北西インド、アナトリアの諸地域で生み出された韻文・散文の作品群のことを指す[1]

このような近世ペルシア語によるペルシア文学の歴史は西暦10世紀まで遡り、ペルシア文化奨励政策を掲げたサーマーン朝期に開花した。ガズナ朝初期には『シャー・ナーメ』が完成され、イスラーム期ペルシア民族の歴史意識の文学的拠り所を獲得する。11世紀半ばには、ペルシアの宮廷文学の伝統はホラーサーンからアゼルバイジャンへと広がり、ペルシア的詩型による多様な主題の表現形式がニザーミーによって打ち立てられる。11世紀後半にはイスマーイール派のナースィレ・フスラウ、12世紀前半には哲学者のウマル・ハイヤームらの思索的作品も登場する。その一方で、アシュアリー学派の教義を土台としたセルジューク朝期の神権統治下で、ホラーサーン派神秘主義の文学的表出としてのペルシア神秘主義文学が登場する。そこでのルーミーらの著作により、イル・ハーン朝期以降のペルシア文学の方向性が位置付けられる。13世紀にはイラン西部でもペルシア文学の活動は本格化し、ペルシア語散文の規範となる『薔薇園』の作者サアディー、さらに14世紀にはイスラーム期イランの詩的精神性の結実といえるハーフィズが出現する。ティームール朝期に活躍したジャーミーを最後に、サファヴィー朝のシーア派政策により神秘主義文学が衰えるなか、ペルシア文学の拠点は一時期、ムガル朝期のインドに移行し、豊かなペルシア詩、文芸批評の新たな伝統が生まれた。19世紀初頭、古典作品への回帰が奨励されるが、20世紀初頭のイラン立憲革命期には内容・形式ともに斬新な近代文学が生まれ、今日まで旺盛な文学活動が継続している[2]
詩形と韻律
詩形

ペルシア文学のなかでも、圧倒的に位置を占めているのは古典詩である。ここでは古典詩の主な詩形(カスィーダ、ガザル、マスナヴィー、ルバーイー、キタ)についてのべる。
カスィーダ(頌詩)

元来アラビア詩形であり、最初の対句(ベイト)は半句(メスラー)の脚韻が互いに押韻し、第二対句以降は後半の半句の脚韻が最初の脚韻と同じで全て押韻する。詩の長さは一般に15対句以上から成り長さに制限はない。内容は主として自然を描写したり恋を語る導入部(ナスィーブ)、詩の主体として称賛部(マディーフ)、結びとして王や詩人の保護者への祝福(ドゥアー)の三部から成る。一般に頌詩と訳され、宮廷詩人が保護者である王侯貴族を称賛するために用いられた詩形である。のちには教訓詩、神学・哲学詩、諷刺詩、神秘主義詩もこの詩形で作詞された[3]
ガザル(抒情詩・恋愛詩)

元来アラビア詩形で、詩形としてはカスィーダと同じであるが、長さが異なり、ガザルは一般に5対句ないしは15対句から成る。抒情詩・恋愛詩の表現に主として用いられ、結びの対句に詩人の雅号(タハッルス)が詠み込まれるのが特色であるが、初期にはこの規則はなかった[3]
マスナヴィー

イラン独自の詩形である。全ての半句の脚韻が互いに押韻し、長さに制限はない。数万句に及ぶ作品もある。一般に叙情詩として知られ、英雄詩、ロマンス詩、神秘主義詩の作詞に主として用いられた[3]
ルバーイー(四行詩)

イラン独自の詩形で、第一、第二、第四句の脚韻が押韻し、第三句の脚韻は押韻してもしなくてもよく、内容は神秘主義、哲学、人生問題等様々である。この複数がルバイヤートであり、ルバイヤートではオマル・ハイヤームの詩集が名高い[3]
キタ(断片詩)

カスィーダ(頌詩)の最初の対句(マトラ)を省いた詩形である。半句または一対句のみの詩もあれば、頌詩と同じ長さに達することもある。哲学、倫理、挽歌、諷刺内容の表現に主として用いられた詩形である[3]
韻律

詩にとって重要なのは詩形とともに韻律である。ペルシア詩は音量すなわち音の長短の原理に基づき組み合わされた韻律で作詞される。ペルシア詩の韻律は元来一部の例外を除いてアラビア詩の韻律から採り入れられた。主な韻律は、ハザジ、ラジャズ、ラマル、ムンサリフ、サリーウ、カリーウ、ハフィーフ、ムタカーリブ、ムザーリウである[3]。研究書ではFinn ThiesenのA Manual of Classical Persian Prosodyが詳しい。
時代による区分
古代ペルシア文学

古代ペルシア文学は、紀元前6世紀から紀元前4世紀にわたったアケメネス朝での古代ペルシア語による碑文(ベヒストゥン碑文など)とゾロアスター教の教典『アヴェスター』を指す。
中世ペルシア文学

中世文学は、8世紀頃までの主にパフラヴィー語による作品で、宗教、歴史、説話に関するものが多く、純文学作品はほとんど現存していない。
近世ペルシア文学

西暦642年にネハーヴァンドの戦いにおいてサーサーン朝が破れて以降、イランはアラブの支配下に入る。この期間はおよそ200年にもわたり、イランの歴史学者はこの期間を「沈黙の2世紀」と名付けた。イスラームとともにアラビア語が次第に重要になり、イスラム教への改宗者が増え、従来の難解なパフラヴィー文字は廃止されアラビア文字が使われ、多くのアラビア語彙が受け入れられて、近世ペルシア語が成立した。この言語による文学が、近世ペルシア文学、または単にペルシア文学と呼ばれる。
サーマーン朝?ガズナ朝時代

アラブ支配の2世紀余りを経て、イラン東北部に民族王朝サーマーン朝が樹立され、サーマーン朝の統治下ではペルシア文学が振興された[3]。ここでの文芸復興とは、イスラーム期以前の古代ペルシア文化の復活、再生を意味するのではなく、これまで独占的な地位を保ってきたアラビア語支配を脱して、近世ペルシア語によるイスラーム的ペルシア文芸の復興を意味する[3]。10世紀にペルシア文学は華麗に開花し、ルーダキーをはじめとする多くの宮廷詩人と吟遊詩人が現れ、またアラビア文学作品の翻訳による散文文学が勃興した[3]

サマルカンドの東方ルーダクという村の出身であったルーダギーは、「ブハーラー宮廷の華」と謳われ、「詩人の父」や「詩人の帝王」の尊称で呼ばれた詩人であった。宮廷詩人として頌詩に最も秀でており、なかでも「酒の母」と題する頌詩が名高い。これは、「酒の母を犠牲にし、その子を/奪い獄に投ぜねばならぬ」という言葉から始まり、酒の母(葡萄)が酒(葡萄酒)に成る過程を詠んだ約百句から成る詩である。他にも「老いを嘆く詩」という頌詩が代表作である。彼の詩の特色は民衆的要素が多いことである。すなわち、極めて素朴、簡素、平明にして流麗で、誇張、華美な表現を用いず、用語の面でも難解で華やかなアラビア語彙をあまり使わず、専ら素朴なペルシア語彙を用いている。これらに加えて宗教的色彩が殆ど現れていないことが、サーマーン朝時代のペルシア詩の大きな特色である。彼によって基礎がおかれたスタイルは古典ペルシア詩の主流として発展し、写実主義を特色とする「ホラーサーンスタイル」として知られるようになった。富と名声を極めた彼であったが、彼の保護者でもあった宰相バルアミーの失脚により、937年突如としてブハーラー宮廷から追放された[3]

ルーダギーに次ぐ民族叙事詩の偉大な先覚者としてダキーキーがいた。トゥースで生まれた彼は、若くしてサーマーン朝に隷属したチャガーニヤーン地方君主に宮廷詩人として仕えた後、マンスール一世やヌーフ二世に仕えた。彼がペルシア文学史上に不朽の名声を留めたのは頌詩詩人ではなく、フェルドゥスィーの先駆者として民族叙事詩を作詩したことによる。ヌーフ二世の命により、恐らくアブー・マンスールによる散文『王書』に拠って、ムタカーリブの韻律を用いて作詩を始めた。しかし、グシュタースプ王の即位、ゾロアスターの出現、同王の帰依、アルジャースプ王との闘いを中心に約1千句を作詩したばかりで、奴隷の手によって殺害され、作品は未完に終わった。その一千句はフェルドウスィーの『王書』に収められた[3]

サーマーン朝と次のガズニー朝時代の両時代に生きたフェルドウスィーは、民族・英雄叙事詩の完成者としてペルシア文学が世界に誇る大詩人である。彼はガズナ朝のスルタン・マフムードと関係が深かったが、彼の作品はあくまでもサーマーン朝の時代精神・思潮の産物である。『王書』は作詞に着手してから約三十年の長い月日を費やし、文字通り心血を注いだ後ついに1010年に完成された。フェルドウスィーの『王書』は、アブー・マンスールの『王書』の他にも多くの資料を利用した。おそらく、イラン民族主義に適したものを取捨選択したと考えられている。


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