ペドロ3世_(アラゴン王)
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ペドロ3世
Pedro III el Grande
アラゴン国王

在位アラゴン王:1276年7月27日 - 1285年11月11日
シチリア王:1282年 - 1285年
戴冠式1276年11月(サラゴサ
別号バレンシア国王
シチリア国王

全名スペイン語: Pedro III el Grande
アラゴン語: Pero lo Gran
カタルーニャ語: Pere el Gran
出生1239年
バレンシア王国バレンシア
死去1285年11月11日
カタルーニャ君主国ビラフランカ・ダル・パナデス
埋葬 カタルーニャ君主国アイグアムルシア、サンテス・クレウス修道院(スペイン語版)
配偶者コンスタンサ・デ・シシリア
子女アルフォンソ3世
ハイメ2世
イサベル
フェデリーコ2世
ビオランテ
家名バルセロナ家
王朝バルセロナ(アラゴン)朝
父親ハイメ1世
母親ビオランテ・デ・ウングリア
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ペドロ3世(スペイン語: Pedro III、1239年 - 1285年11月11日[1])は、アラゴン王バレンシア王バルセロナ伯(在位:1276年 - 1285年)。シチリア王(在位:1282年 - 1285年)。

ペドロ3世とはスペイン語の呼び名であり、アラゴン王としてはペーロ3世(アラゴン語: Pero III、バレンシア王としてはペーラ3世(カタルーニャ語: Pere III、バルセロナ伯としてはペーラ2世、シチリア王としてはピエトロ1世(イタリア語: Pietro I)。大王(アラゴン語: lo Gran、カタルーニャ語: el Gran、イタリア語: il Grande、スペイン語: el Grande)と呼ばれる。ハイメ1世(征服王)と2番目の王妃であるハンガリーアンドラーシュ2世の王女ヨラーン(ビオランテ)の息子。アラゴン王国最大の君主のひとりである。
経歴
青年期と王位継承ペドロ3世の肖像がデザインされた銀貨

ペドロはアラゴン王ハイメ1世(征服王)と2番目の妻ビオランテ・デ・ウングリアの長男である。弟にハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)がおり、姉妹にビオランテ(後のカスティーリャ王妃)やイサベル(後のフランス王妃)がいる。

1260年またはそれ以前に、ペドロはニカイア帝国の皇帝テオドロス2世ラスカリスの末娘エウドキア・ラスカリナ・アサニナと婚約した。しかし1261年にはエウドキアの弟ヨハネス4世ラスカリスが皇帝位を失ったため婚約は解消され、エウドキアはペドロではなくテンダ伯と結婚している。1262年6月13日、ペドロはシチリア王マンフレーディの娘でありシチリア王国の相続人であるコンスタンサと結婚した。青年期には父ハイメ1世がムーア人に対するレコンキスタの過程で行った数々の戦争で多くの軍事経験を得た[2]

1276年に父王ハイメ1世が死去すると、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土はアラゴンとカタルーニャに分割された。長男であるペドロにはアラゴンバレンシアカタルーニャの大部分が与えられた。一方で次男のハイメには、バレアレス諸島(やがてマヨルカ王国)、北カタルーニャ(ルシヨン郡、コンフラン郡、カジール(英語版)、モンペリエ伯領のラングドック地方)が与えられている。1276年11月、ペドロとコンスタンスはアラゴン連合王国の首都であるサラゴサで戴冠した。この式典でペドロは祖父のペドロ2世ローマ教皇に対して負っていたあらゆる封建的義務を放棄した。
国内での戦争

ウルジェイ郡(英語版)では土地継承に関する問題が起こっていた。1268年にウルジェイ伯アルバロ(英語版)が死去した際、彼の2人の妻の出身家(ベアルン伯ペドロ・ムンカーダ、フォア伯ルジェ=ベルナルド2世)が相続に対する長い戦いを開始した。ウルジェイ郡のかなりの土地は父王ハイメ1世が差し押さえており、1276年の戴冠時にペドロに継承されている。1278年にはウルジェイ伯アルバロの長男であるアルマンゴル10世がペドロ3世と協定を結び、失っていた土地のほとんどを回復し、その対価としてアルマンゴル10世はペドロ3世を領主として認識した[2]

ペドロ3世のアラゴン王としての初任務は、父王の生前から続けられていたバレンシア領土の鎮圧だった。しかし、カルドナ子爵が主導した反乱がカタルーニャでも起こり、フォア伯ルジェ=ベルナルド3世、パリャルス・スビラー伯アルノルド・ルジェ1世、ウルジェイ伯アルマンゴル10世がこの反乱を扇動した[2]。父王は彼らとの商取引を盛んに行ったが、ペドロ3世は彼らの特権を承認しなかったため、抵抗勢力はペドロ3世への憎しみを募らせていき、彼らは「議会」を招集しないことでペドロ3世に反抗していた。1280年にはバラゲールを1か月間包囲し、ルジェ=ベルナルド3世が率いる反乱軍を破った。反乱の指導者の大半は1281年までリェイダで投獄されたが、ルジェ=ベルナルド3世は1284年まで投獄されている。
国外での戦争マリアーノ・バルバサン『ペドロ3世』

ハイメ1世の治世にアラゴン連合王国の傘下に入っていたチュニジアハフス朝は、1277年に第2代君主のアブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィルが死去すると、アラゴン連合王国の宗主権のくびきを投げた[3]。ペドロ3世はチュニジアの宗主権を再取得するために、1280年にクンラッド・ダ・リャンサが率いる最初の遠征隊をチュニスに送った[2]。1281年にはコンスタンティーヌの統治者の代わりにチュニジアを侵略するために、ペドロ3世自身が140隻の艦隊と15,000人の兵士を引き連れてチュニジアに向けて出港し[4]、艦隊は1282年にコロ(英語版)から上陸した。


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