ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス(Pedro Fernandes de Queiros(誕生名)、Pedro Fernandez de Quiros(カスティーリャ語スペル)[1]、1563 - 1615年)は、ポルトガル出身の航海者、探検者。スペインの太平洋航海:1595 - 1596年アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの航海、1605 - 1606年のテラ・アウストラリス調査に参加。 キロスはアベル・タスマンとジェイムズ・クックの前にオーストラリア大陸を発見していたとし[5]、植民地「ノヴァ・エルサルム」は現グラッドストン 参考文献:en:Pedro Fernandez de Quiros#Accounts of Quiros' Voyage
略歴
1563年、エヴォラで誕生
1589年、Dona Ana Chacon とマドリードで結婚:1男1女を授かる
1595年、アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラのソロモン諸島植民に操縦士として参加。
1596年2月、フィリピンに上陸[2]
1598年、スペインに帰還、フェリペ3世に新たな太平洋航海支援を懇願
1600年、ローマでクレメンス8世の援助を得る
1603年3月、ペルーへ帰還、南太平洋のテラ・アウストラリス調査への許可を受諾
1605年12月21日、カヤオを出航:航海士 160名、船 San Pedro y San Pablo(150トン)、San Pedro(120トン)、Los Tres Reyes[3]
1606年5月、ニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)到達、南部の島(現エスピリトゥサント島)をオーストリア系のフィリップ3世を讃え、La Austrialia [4] del Espiritu Santo (The Austrian Land of the Holy Spirit) と命名。植民地「ノヴァ・エルサルム」建設開始
1606年6月11日、沿岸調査に出航したキロスは悪天候により、エスピリトゥサント島帰港が不可能になりアカプルコ(メキシコ)を目指す
1606年11月、アカプルコ到着
キロスの副官を務めていたルイス・バーエス・デ・トーレスはエスピリトゥサント島でキロスを調査後、難破したと推定される。1607年5月、マニラに到達。ニューギニア南岸の海峡(現トレス海峡)を通過し海図に記す。
1607年、マドリード帰還
1615年、パナマで死去
論説
脚注
^ Australian Dictionary of Biography online ⇒[1]
^ Estensen, M. (2006) Terra Australia Incognita; The Spanish Quest for the Great South Land p.111-113. Allen & Unwin, Australia ISBN 978 1741750546
^ Estensen, M (2006)
^ Moran, cited in Richardson, W.A.R. (2006) Was Australia charted before 1606? p. 20. National Library of Australia ISBN 0642 276420
^ Cardinal Moran's Discovery of Australia by de Queiros in the Year 1606 ⇒[2]