ペドロ・アルヴァレス・カブラル
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ペドロ・アルヴァレス・カブラル

生誕Pedro Alvares de Gouveia
1467年または1468年
ポルトガル王国ベルモンテ(英語版)
死没1520年(52-53歳)
ポルトガル王国サンタレン
死因不詳
墓地ポルトガル共和国サンタレンのグラサ教会(ポルトガル語版)
別名

Pero Alvares Cabral

Pedr'Alvares Cabral

Pedralvares Cabral

Pedraluarez Cabral

職業ポルトガル王国の軍人、探検航海者
宗教カトリックキリスト騎士団員)
配偶者Isabel de Castro
子供

Fernao Alvares Cabral

Antonio Cabral

Catarina de Castro

Guiomar de Castro

Isabel

Leonor



父:Fernao Alvares Cabral

母:Isabel Gouveia

署名

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ペドロ・アルヴァレス・カブラル[注釈 1] (ヨーロッパ・ポルトガル語発音: [?ped?u ?a?v?r(?)? k??β?a?]、ブラジルポルトガル語発音: [?ped?u ?awva?is ka?b?aw]Pedro Alvares de Gouveiaとも、1467年か1468年?1520年)は、ポルトガル王国貴族、軍人であり、探検航海者ブラジルを「発見」したヨーロッパ人として知られる。前半生については不明な点が多いが、下級貴族の出身であり、比較的高度な教育を受けていたとされる。1500年、カブラルは南アメリカ大陸北東沿岸域における初の本格的探検遠征を指揮し、その成果をポルトガルに報告した。先行するヴァスコ・ダ・ガマの探検航海において南大西洋の西側に陸地が存在するであろうことについては既に判明していた(1497年)が、カブラルはヨーロッパ人として初めて4大陸(ヨーロッパ大陸アフリカ大陸アメリカ大陸アジア大陸)を踏破した探検家となった[1]
概要

ポルトガル王室はヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ経由でのインド航路開拓(英語版)に続くものとして、カブラルにインドへの探検遠征を命じた。その狙いは貴重な香辛料を持ち帰ること、また海路を利用しアラブ人トルコ人オスマン帝国)、イタリアの商人らを通さずインドとの香辛料貿易を行うルートを確立することにあった。1500年、カブラルは13隻の船団を率いて大西洋西部へと出航した。船団はおおむね予定通りに進み同年4月に陸地を発見したが、彼は当初これを大きな島だと考えていた。スペインとの勢力圏分割を取り決めたトルデシリャス条約(1494年)に基づくポルトガルの領分に位置していたため、カブラルはこの地をポルトガルの所領と宣言した。しかし海岸沿いを探索した結果この陸地が大陸の一部であるらしいことが判明し、彼は新たな領土についてマヌエル1世に報告すべく1隻の船を急派した。この大陸こそが南アメリカであり、カブラルによりポルトガル領と宣言された地域は後にブラジルとなった。艦隊はその後この大陸を離れ、インドへと向けて東進を開始した。

南大西洋の嵐により一部の船が失われ、インドのカリカットに至る手前、アフリカ大陸東岸のモザンビーク海峡において落ち合う事の出来た船は6隻のみであった。カブラルは当初カリカットでの交易権獲得交渉に成功したが、アラブ商人たちはポルトガルの探検事業が自分たちの商益を脅かすものと判断し、ムスリム勢力やヒンドゥー勢力を動かしてポルトガルの拠点(英語版)を襲撃させた。これによりポルトガル側では多数の死傷者が出て施設も破壊された。カブラルは報復としてアラブ商人の艦隊を掠奪・放火したうえ、予期せぬ襲撃に関して統治者から弁明がなかったとして関係都市への砲撃を行った。その後、船団はインド都市国家の一つコーチン王国へと向かった。


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