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ペドロ・アルヴァレス・カブラル
生誕Pedro Alvares de Gouveia
1467年または1468年
ポルトガル王国ベルモンテ
ペドロ・アルヴァレス・カブラル[注釈 1] (ヨーロッパ・ポルトガル語発音: [?ped?u ?a?v?r(?)? k??β?a?]、ブラジルポルトガル語発音: [?ped?u ?awva?is ka?b?aw]Pedro Alvares de Gouveiaとも、1467年か1468年?1520年)は、ポルトガル王国の貴族、軍人であり、探検航海者。ブラジルを「発見」したヨーロッパ人として知られる。前半生については不明な点が多いが、下級貴族の出身であり、比較的高度な教育を受けていたとされる。1500年、カブラルは南アメリカ大陸北東沿岸域における初の本格的探検遠征を指揮し、その成果をポルトガルに報告した。先行するヴァスコ・ダ・ガマの探検航海において南大西洋の西側に陸地が存在するであろうことについては既に判明していた(1497年)が、カブラルはヨーロッパ人として初めて4大陸(ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、アメリカ大陸、アジア大陸)を踏破した探検家となった[1]。 ポルトガル王室はヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ経由でのインド航路開拓
概要
南大西洋の嵐により一部の船が失われ、インドのカリカットに至る手前、アフリカ大陸東岸のモザンビーク海峡において落ち合う事の出来た船は6隻のみであった。カブラルは当初カリカットでの交易権獲得交渉に成功したが、アラブ商人たちはポルトガルの探検事業が自分たちの商益を脅かすものと判断し、ムスリム勢力やヒンドゥー勢力を動かしてポルトガルの拠点(英語版)を襲撃させた。これによりポルトガル側では多数の死傷者が出て施設も破壊された。カブラルは報復としてアラブ商人の艦隊を掠奪・放火したうえ、予期せぬ襲撃に関して統治者から弁明がなかったとして関係都市への砲撃を行った。その後、船団はインド都市国家の一つコーチン王国へと向かった。カブラルは当地の統治者と友誼を結び、ヨーロッパへと帰還する船に念願の香辛料を積み込むことにも成功した。船員や船の損失はあったものの、カブラルの探検航海はポルトガル本国への帰投をもって成功と見なされた。このとき持ち帰った香辛料の売却益は極めて大きく、ポルトガル王室の財政に大いに資するところとなり、ひいてはアメリカから極東にまで広がるポルトガル海上帝国の礎を築くことにもつながった[注釈 2]。
その後、インドにおいて従前より強化された艦隊を編成するにあたり、カブラルはマヌエル1世と意見が対立した為に任を外された。王の寵を失ったカブラルはそのまま致仕して隠居生活に入り、晩年の様子についてはほとんど記録が残されていない。カブラルの業績については没後300年程の間で大半が忘れ去られてしまったが、19世紀にブラジルが独立した後、ペドロ2世により再顕彰がなされることとなった。歴史学者の間ではカブラルがブラジルの発見者と言えるか否か、また彼のブラジル発見が偶然であったか否かについて長年論争が続けられている。一つ目の問いについては、カブラル以前にブラジルに至ったらしき探検家の記録は存在するものの、いずれも後年の「アメリカにあってポルトガル語を母語とする国家ブラジル」誕生にほぼ資するところがない、という複雑な事情がある。二つ目の問いについては、陸地があると確信して探しに来た、という仮説は論拠に乏しい。いずれにせよ、近代の研究者によって再注目されたことで、カブラルは歴史学者たちから大航海時代における主要人物の一人と見なされるようになったのである。
前半生カブラル家の紋章
ブラジル遠征以前のカブラルについては不明瞭な部分が多い。彼は1467年ないし1468年(1467年である可能性が高いとされる[2][3])、ポルトガル中部のコヴィリャン(英語版)よりおよそ30kmの地にあるベルモンテ(英語版)で誕生した[4]。父はFernao Alvares Cabral、母はIsabel Gouveiaで、兄弟は彼を含め五男六女があった[5]。カブラルの受洗時の名はPedro Alvares de Gouveiaであり、1503年に兄のひとりが没した[6]後より、父方の姓を名乗るようになったと推測される[注釈 3][7][8]。カブラル家の紋章は銀色のフィールドに紫色の山羊が2匹描かれたものである。紫色は忠誠心を表し、山羊は家名に由来する(cabralは英語のgoatsに相当)ものである[2]。しかしながら、叙任され紋章を使用する権利を有していたのは家中ではカブラルの兄だけであった[9]。
一家はマケドニア王国の伝説上の初代王カラノスの子孫であると称していた。カラノスは半神ヘーラクレースの7世孫とされる人物である[注釈 4]。神話についてはさておき、歴史学者のJames McClymontは、他家の言い伝えにカブラル家の真の沿革を知る糸口があるとしている。その説に基づけば、CabraisとはCabreiras(cabraはスペイン語およびポルトガル語で山羊を意味する)という名のカスティーリャ人一族に由来するもので、この一族はカブラル家のものとよく似た紋章を使用している[注釈 5]という。