ペトロ岐部
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福者 ペトロ岐部
イエズス会司祭

聖職
司祭叙階1620年11月15日
教皇領
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
個人情報
本名岐部 茂勝(きべ しげかつ)
別名カスイ岐部
出生1587年
豊前国国東郡
(現・ 日本
大分県国東市
岐部
死去1639年7月4日
江戸幕府
武蔵国江戸
(現・東京都
聖人
記念日7月1日
称号福者
殉教者
列福2008年11月24日
日本
長崎県長崎市
列福決定者ベネディクト16世
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ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年天正15年) - 1639年7月4日寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教カトリック)の司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる[1][2]

司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年カトリック教会福者に列せられた。
生涯
生誕

1587年豊後国国東郡の岐部(現・大分県国東市国見町岐部)で、父・ロマーノ岐部、母・マリア波多の元に生まれる[3]。父・ロマーノ岐部は、豊後国の戦国大名大友氏の重臣で、国東半島北部の岐部を本拠とする豪族岐部氏の一族。母・マリアの実家は、大友氏の重臣波多氏で宇佐神宮の神官をしていた。本拠は国東半島北西部海岸の田福村で宇佐八幡の隣接地域である。
ローマへ

キリスト教徒の両親の間に生まれたペトロ岐部は、13歳で有馬のセミナリヨに入学した。1606年イエズス会入会を志して「カスイ」と号した[注釈 1]。イエズス会の諸資料において「ペトロ・カスイ岐部」と書かれる。

1614年江戸幕府によるキリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は、司祭神父)になるべく同地のコレジオラテン語神学を学んだ。しかし、マカオの上長の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マンショ小西ミゲル・ミノエスとともにコレジオを脱出して渡航した。マカオからマラッカゴアへは船で渡り、そこから岐部は1人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。ホルムズバグダードを経て、日本人としてはじめてエルサレム入りを果たした。ローマにたどりついたのは出発から3年が経った1620年のことであった[4]

すでにマカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」という警告の手紙が送られていたが、ローマでイエズス会士による審査を受けた岐部は、司祭にふさわしい適性と充分な学識を備えていることを認められ、1620年11月15日サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で32歳で司祭に叙階された[3]。さらにローマのイエズス会聖アンドレ修練院(イタリア語版)で2年間イエズス会士としての養成を受け、リスボンに赴いて同地で誓願を宣立した。1623年、20人のイエズス会士とともに、インドを目指す旅に出る[4]。はるか喜望峰を回り、翌1624年ゴアにたどりついた。
ふるさとをめざして

岐部は殉教を覚悟して日本への渡航を希望したが、そのころの日本では弾圧が強化され、宣教師の入国は厳禁だったため、司祭を乗せる船がなかった。そのため岐部は日本への足を求めて東南アジア各地をまわった。1630年マニラから日本に向かう船に乗り込むことに成功。難破しながらも何とか薩摩の坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊)に到着した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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