ペトロヴァラディン
Петроварадин
Petrovaradin
ドナウ川に架かるヴァラディン橋からみたペトロヴァラディン要塞
位置
セルビアにおけるペトロヴァラディンの位置
ノヴィ・サド市におけるペトロヴァラディン区とノヴィ・サド区の位置関係
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度14分29秒 東経19度52分28秒 / 北緯45.24139度 東経19.87444度 / 45.24139; 19.87444
ペトロヴァラディン(セルビア語:Петроварадин / Petrovaradin、ハンガリー語:Petervarad、ドイツ語:Peterwardein)は、セルビア、ヴォイヴォディナ自治州の州都であるノヴィ・サド市の一地区である。ペトロヴァラディン要塞を取り巻くように、ドナウ川の右岸に位置しており、ドナウ左岸に広がるノヴィ・サド市街地の主要部とは橋で結ばれている。
呼称要塞のすぐ下にある、ポドグラジェ・トヴルジャヴェ(Podgra?e Tvr?ave)地区の街並み
ローマ帝国がケルト人の部族・スコルディスキを征服したあと、この地にクスム(Cusum)という要塞を築いた。この要塞の場所に後にペトロヴァラディン要塞(Petrovaradin Fortress)が築かれた。町の名前は、ビザンティン帝国が、聖ペトルにちなんでペトリコン(Πετρικον /Petrikon)と名付けたことに由来している。
1237年の文献で、町ははじめてペトロヴァラディン(ハンガリー語ではペーテルヴァーラド Petervarad)の名で記されている。ペトロヴァラディンはハンガリー統治時代はペーテルヴァーラドの名で、オスマン帝国統治下ではヴァラディン(Varadin)の名で、ハプスブルク家統治下ではペーターヴァルダイン(Peterwardein)の名で呼ばれてきた。
現在、セルビア語での呼称はペトロヴァラディン(Петроварадин / Petrovaradin)、ハンガリー語での呼称はペーテルヴァーラド(Petervarad)となっている。
歴史セルビア正教会の聖パヴレ聖堂
この地に人が住んでいた最古の形跡は、紀元前4千5百年ごろの石器時代にまで遡ることができる。この地は紀元前4世紀ごろにケルト人に征服され、紀元前1世紀に古代ローマに征服された。ケルト人はこの地に最初の要塞を築き、ローマ時代の1世紀にはクスム(Cusum)と呼ばれるより大きな要塞が築かれ、パンノニア属州の一部となった。5世紀にフン族の侵入によりクスムは破壊された。
5世紀末には東ローマ帝国(ビザンティン帝国)によって再征服され、クスムあるいはペトリコンの名で呼ばれるようになった。その後、東ゴート王国、ゲピド族、アヴァール、フランク人、ブルガリア人の侵入を経て、再びビザンティンの手に落ちた。
その後12世紀にはハンガリー王国、1526年にオスマン帝国、1687年にハプスブルク君主国の支配下となる。オスマン帝国統治下では、ペトロヴァラディンには200世帯が住んでおり、3つのモスクがあった。町にはキリスト教徒地区もあり、セルビア人が35世帯住んでいた。
18世紀に墺土戦争が起こると、ペトロヴァラディンは1716年8月5日にプリンツ・オイゲンがオスマン帝国の軍を打ち破ったペーターヴァルダインの戦いの主戦場となった。オイゲンは翌1717年にオスマン帝国をベオグラードでも打ち破り(ベオグラード包囲戦)、オスマン帝国はポジャレヴァツで和平を求めて交渉の席につき、パッサロヴィッツ条約が結ばれた。
ハプスブルク家統治下では、ペトロヴァラディンは軍政国境地帯の一部に組み込まれた。1848年から1849年にかけて、町は新設された自治州・セルビア・ヴォイヴォディナの一部となったが、1849年には再び軍政国境地帯の一部へと戻された。1881年に軍政国境地帯が廃止されて以降は、町はオーストリア=ハンガリー帝国の自治領邦であるクロアチア=スラヴォニア王国の一部となった。
1918年、新たに誕生したセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の一部となった。1918年から1936年まで、ユーゴスラビア王国空軍(Yugoslav Royal Air Force)の基地がペトロヴァラディンに置かれた。王国が国号をユーゴスラビア王国に改めた1929年から1944年まで、町はドナウ州(Danube Banovina)の一部となった。第二次世界大戦中の1944年、町は枢軸国に占領され、ファシスト勢力によるクロアチア独立国の一部とされた。終戦後、ユーゴスラビア連邦人民共和国を構成するセルビアの一部としてヴォイヴォディナ自治州が設置され、2006年にセルビアが独立国となってからも同国の自治州ヴォイヴォディナに属している。
地理 ノヴィ・サドペトロヴァラディンブディサヴァカチチェネイキサチュルメンカヴェテルニクフトグベゲチュステパノヴィチェヴォスレムスカ
カメニツァブコヴァツレディンツィスタリ・レディンツィコヴィリノヴィ・サド市
ノヴィ・サド区ペトロヴァラディン区
ペトロヴァラディンは、セルビア・ヴォイヴォディナ自治州の州都・ノヴィ・サド市を構成する2つの自治体のひとつである。ノヴィ・サド市(699平方キロメートル)全体のおよそ3割ほどがペトロヴァラディン自治体(以下、ペトロヴァラディン区)に属しており、区の面積はおよそ100-130平方キロメートルである。区の面積のうち3割ほどはノヴィ・サド市街地の一部を成しており、残りは郊外地区となっている。市街地以外の大部分はフルシュカ・ゴーラ国立公園に含まれる。
ペトロヴァラディン区はドナウ川の右岸、標高78メートルから220メートルにわたる地塁山地・フルシュカ・ゴーラの北斜面に位置している。フルシュカ・ゴーラの北側では大規模な地すべりによる地形が形成されているが、スレムスカ・カメニツァとペトロヴァラディン要塞の中程に位置するリブニャク(Ribnjak)地区以外では地すべりの活動は活発ではない。
東側のドナウ川一帯には池、ヨシ原、草地、湿地、森林などが多く、ウォーターヴァイオレット(英語版)、デンジソウなどの植物が生え、コチョウザメ、ナベコウ、ホクオウクシイモリ(英語版)などの動物が生息している。2012年にラムサール条約登録地となった[1]。 ペトロヴァラディンは、ペトロヴァラディン区の中心地とされている。2002年にノヴィ・サドの行政上の地位が変更されたことにより、ノヴィ・サド市は2つの区に分けられることとなり、ペトロヴァラディン区とノヴィ・サド区
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