ペトロパブロフスク_(戦艦・2代)
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基本情報
建造所バルチック造船所
運用者 ロシア帝国海軍
 ソビエト連邦海軍
艦種戦艦
級名ガングート級戦艦
艦歴
起工1909年6月3日
進水1911年8月27日
就役1914年12月4日
除籍1953年9月4日
要目
常備排水量23,360トン
全長181.2 m
最大幅26.6 m
吃水8.4 m
機関パーソンズ式直結タービン4基4軸推進
42,000馬力
最大速力23 kn
乗員1126 名
兵装305 mm砲3連装4基
120 mm砲単装10基(竣工時16基)
76.2 mm単装砲6基
37 mm機関砲14基
12.7 mm機関銃10基
7.62 mm機関銃89基
魚雷発射管457 mm4門
装甲水線229 mm
甲板76 mm
砲塔203 mm
バーベット203 mm
司令塔245 mm
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ペトロパヴロフスク(ロシア語:Петропавловск;英語:Petropavlovsk)は1911年に進水したロシア帝国海軍戦艦。後にソヴィエト連邦海軍[1]の戦艦マラート(ロシア語:Марат;英語:Marat)となった[2][注釈 1]

当初艦名の「ペトロパヴロフスク」(ピトロパーヴラフスク)とは、クリミア戦争時のペトロパブロフスクの戦いに由来する[要出典][注釈 2]

「マラート」はフランスの革命家ジャン=ポール・マラーに因んでいる[要出典]。日本語では戦艦マラー (Marat) と表記することもあった[4][注釈 3]

独ソ戦におけるレニングラード攻防戦に従事中の1941年(昭和16年)9月下旬、ドイツ空軍Ju 87による急降下爆撃で大破[注釈 4]、艦前半部分は沈没したが、後部は浮き砲台として戦闘を続けた[7]。1943年に建造時の艦名「ペトロパヴロフスク」に戻ったあと[8]、最終的にはラドガ湖に流れ込むヴォルホフ川に因み、「ヴォルホフ (Волхов)」と改名された。なお大損害から復帰する際、戦艦から砲術練習艦に艦種も変更されている。
第二次世界大戦以前の艦歴

1914年、「ペトロパヴロフスク」はロシア帝国海軍における最初の弩級戦艦ガングート級戦艦の2番艦として他の同型艦3隻と共に竣工した。姉妹艦「ガングート」を1番艦とせず、本艦をネームシップとしてマラート級戦艦と表記する二次資料がある[7][9]。外見的には同時代のイタリア戦艦「ダンテ・アリギエーリ」に似ているが[10]オーストリア=ハンガリー帝国海軍テゲトフ級戦艦を基にしたドイツ式設計の影響が大きいという説もある[要出典]。

最初は第一次世界大戦における対独戦に参加していたが、ロシア革命によりソヴィエト政府がドイツ帝国講和条約を締結したことにより、それまで味方であった連合国側に攻撃されてしまう。1919年8月18日、クロンシュタット軍港でイギリス海軍魚雷艇(CMB31,88)の雷撃により浸水着底する。その後、本艦は浮揚修理されて復帰した。

1921年3月、内戦の大勢が決したにもかかわらず市民生活の改善が行われないことに対し、「ペトロパヴロフスク」の艦上で開かれた乗組員集会において革命の民主化とボリシェヴィキの打倒を求めるスローガンが採択され、同戦艦の乗員ステパン・ペトリチェンコ(操舵係将校)、パトローチェフ(主任電気技術兵)の2名が臨時革命委員会委員となった。事態は緊迫化して行き水兵達はクロンシュタットの反乱を起こすが、ミハイル・トゥハチェフスキーがこの反乱を鎮圧した。

赤軍は4,000人以上の戦傷者を出し、反乱側は死傷者不明ながら「共産主義黒書」によれば鎮圧後2,103人が死刑の判決を受け、6,459人が投獄され、8,000人の反乱軍兵士がフィンランド亡命するという恐ろしい結果に終わった。

関係者に対する厳しい処分の一方、艦自体は貴重な弩級戦艦として整備改装が行われた。結果としてソヴィエト政権時代に新たな戦艦を国産して長期運用することは出来なかったこと、列強各国の主力艦には見劣りするが[注釈 1]バルト海黒海といった限定的な海域においては有力艦でありつづけたため[11]、本級は極めて重要な存在であった[注釈 5]


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